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わかりにくい田舎暮らし

東京から信州に移り住んで3年が経った。思ってた以上のこともあれば、思ってたそのままなこともあるし、思ってもなかったこともある。うれしいことも、びっくりなことも含めて。

まあでも、そんなのどこからどこに移り住んだってあると思う。

のだけど、周りからみれば「憧れの田舎暮らしどうなの」とか「YOUは何しに田舎へ?」といった興味というか疑問はいまだに持たれる。

そんなのみんな自分の人生を生きるのに忙しいんだから、僕みたいな一介のライターの田舎暮らしなんてどうでもいいことこの上ないと思うんだけど。

たぶん、そんな興味や疑問を持たれるのは、僕らの田舎暮らしが「わかりやすい」ものではないからなんだろう。

土曜日の夕方に地上波でやってる番組みたいな「第二の人生」の楽園生活な世代でもないし、人里離れた山の中でポツンと一軒家にいるわけでも、農な暮らしとかデュアルライフで村興しビジネスをしてるのでもない。

もちろん、そういう人たちにケチつけてるわけじゃなくて、どちらかといえば、そういうわりと誰もがイメージしやすい田舎暮らしと、イメージしづらい田舎暮らしもあるよねという話。

僕らは、結果的に後者のほうだ。

すごく端的に端折りまくっていうと(その話を真面目にすると2時間とか7万字くらい容量必要そうだから)「ちゃんと暮らしたい」からそれができそうな場所を選んだら結果的に田舎の里山だったということ。

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ちゃんと暮らすってどういうことなのか。僕らが「ちゃんと暮らしたいな」と思うベースの部分には「頭と身体とどっちもちゃんと使って暮らしたい」というのがあった。

東京暮らしでは「頭」はめっちゃ使ってた。どうやったらもっと効率よく仕事できるのか。仕事を上手くこなすために便利なものはもちろん使う。生活、暮らしは仕事の隙間の中にうまく押し込めて回していくもの。

基本的にすべてが「仕事のために最適化された生活」。それはそれで悪くなかった(仕事は拡大するしね)のだけど、同時に何か足りなかった。隙間時間にジムに通ってワークアウトしても、どこかもやっとしたつかみどころのない「コレジャナイ感」が残る。

で思ったのが「生きるために身体使ってなくないか?」という壮大でプリミティブな問いだったのだ。

都心に住んでたって身体は使う。だけど都心で身体を使うのは、頭を動かし仕事のために最適化された生活を滞りなくこなすためだ。これをやらないと生きられない作業ってほとんどない。基本、いくらかのお金と都会に張り巡らされた便利さが何とかしてくれる。

お腹がグーグー空いてるのに、ほんとに部屋から一歩も出たくなくてもUber Eatsさんとか、何かのデリバリーが頼める。

里山ではそんなわけにはいかない。食に関していえばすべてのデリバリーサービス系は清々しいくらい配達エリア外だ。年に2回、道の駅に某ピザチェーンさんの移動販売トラックがやってくると「祭り」になる。

さすがに年2回のピザだけではお腹が減ってしまうので、わざわざ何十分かけてスーパーに買い出しにも行くし、小さな畑で野菜もつくる。

野菜も勝手に育ってくれるものじゃないので、ちゃんとお世話しないと食べられない。夏野菜なんかは成長が早いので毎日、何かしら畑の作業もしないといけない。草刈りもサボると畑も家も草に埋もれる。

長い冬の暖房は基本、薪ストーブなので木を伐り出して薪を割らないとリアルに家の中がマイナスの世界になって凍える。やること多い。

吉玉サキさんも、この記事の中で

山と街の暮らしでは、「生きるために必要な作業」に費やす時間が違う。

と書かれてたけど、ほんとにそうなのだ。もちろん山と里山では、比べものにならないのだけど、それでも「生きるためにやらなきゃ」な作業は確実にある。

で、そういう暮らしが嫌かというとそうでもないのだ。なんていうか「ちゃんと暮らしてる感」は以前よりすごくある。

そりゃ、すべてうまくいくことばかりじゃないし、田舎には田舎の忙しさがあるので時間はいつだって欲しい。

だけど都心で暮らしていたときのような、どんなにがんばっても「手のひらから時間がこぼれてしまう」漠然とした虚しさはここにはない。生きるために時間を使った分は「ちゃんと時間を使った感覚」が身体に刻まれる。

それが、なんだかよくわからないけど心地いいのだ。