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推敲と一発録り幻想

ロック・ミュージックの世界には「一発録り幻想」とでも呼ぶべき、なかなか厄介なファン心理があります。

たとえば、若かりし日のレニー・クラヴィッツが当時ガンズ・アンド・ローゼズに在籍していたスラッシュを招き、「Always On the Run」という曲を収録したときのこと。

軽く音合わせをしたあと、「じゃ、とりあえず1回通して弾いてみるか」みたいな感じで、スラッシュにギターを弾いてもらったそうなんですね。そうすると、これがまあ荒々しくもソリッドな、緊張感あふれるとんでもない演奏で、レニーは「最高だな! ありがとう、これでいくよ」と一発OKを出したんですって。

ところがスラッシュは「いや、いまのは練習だ。あと100回くらい演れば、もっといいテイクが録れるから」と言い張る。レニーのほうは「ははは。お前があと何百回弾こうとオレは一向にかまわんけど、使うのはさっきのテイクだからな」と笑った、そして実際の「Always On the Run」には1回目のテイクが使われた、というお話。

こういうのを聞くと、ロック・ファンの大半はレニーの判断に喝采をおくるわけです。何十回、何百回と録りなおされた音よりも、初期衝動そのままに荒っぽく一発録りされた音に「ロック」を感じる。加工や修正がほどこされた音には、その完成度に惚れ惚れしながらも、どこか非ロック的な「嘘」を感じる。みんなが楽器を持ち寄って「せーのっ!」で録った音に必要以上のありがたみを感じる、そういうファン心理です。

でも、どうなんだろう。このファンとしての「一発録り幻想」って、音としての緊張感やリアリティを求めているというよりも、「これは一発録りである」という〝物語〟のほうを求め、ありがたがっている側面が強いんじゃないのかなあ。

このところ、絶賛進行中の大きな原稿をひたすら書きなおしているのですが、やっぱり時間をかけてなおすほど精度はあがっていくし、これで「第一稿のほうが荒々しくてロックだよ!」なんて判断でそっちを出版されたら、全力で阻止するだろうなあ、と思ったのでした。