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そんなことやってる場合、なのです。

「そんなことやってる場合か!」

国政からプライベートの些事にいたるまで。ひとまずそのことばを投げつけておけば、なにかを言った気になり、投げつけられれば「たしかにそうかも」と焦ってしまう。けっこう汎用性の高いキラーワードのような気がします。

たとえば、ぼくがこのブログを書いていることだって、「そんなことやってる場合か!」とお叱りを受けても仕方のないことだと思いますし、忙しいときにはごはんを食べることも、トイレやお風呂も、なんなら家に帰って睡眠をとることだって「そんなことやってる場合か!」と叱られるような、人間として最低限の営みさえも無駄な行為と断じてしまうような強迫観念が、ぼくや世のなかを覆っているような気がします。

じゃあぼくらは、どんなことを「やってる場合」なのでしょう。


もちろん、ぼくでいえば一刻も早く原稿を書き上げること、停滞している仕事を終わらせることがそれなんでしょうけど、仮にそうやって目の前の仕事を終わらせたとして、明日以降のスケジュールがガラ空きになったとして、それでのんびりと三国志全巻を読み返すようなことをしていたら、また「そんなことやってる場合か!」と怒られそうな気がしますよね。


これはぼく自身、のんびりとした誰かを見るときにも似たような気持ちに襲われることがあるので気をつけなきゃいけないんですが、たとえば本を読んだり映画やコンサートを観に行ったり、だらだらお酒を飲んだりするような「やってる場合じゃなさそうなこと」に価値を認め、それこそを「やってる場合なこと」と認めるような、自分や他人を追いつめないこころの持ちかたのことを「豊かさ」と呼ぶんじゃないかと思うのです。

うん、書いててわかりました。「そんなことやってる場合か!」が嫌なのは、きっとそれが貧しいことばだからなんですよ。

自分にも他人にも、明らかに「そんなことやってる場合じゃないだろう、少なくともいまのお前は」な季節はあるんですけど。いまのぼくは間違いなくそこにいるのでしょうけど。


笑ってる場合ですよ!』という番組タイトルは、すばらしかったなあ。