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平凡は正義である(まさよしにあらず)

たとえば大衆中華料理店で、チャーハンを注文する。

なんの変哲もない、かまぼこの切れ端が入ったようなチャーハンが運ばれてくる。ひとくちほおばる。うまい、と感激するほどでもなく、まずい、と顔をしかめるほどでもない、平凡なチャーハンである。そこでテーブルに置いてある黒コショウを、めしの上にささっと振りかける。またひとくちほおばる。口のなかに、コショウの香りがふわっとひろがる。そしてひとりごちる。「うん、うまい」と。

じつはこれ、ほんとうにうまくなったのかどうかは、よくわからない。ただ、「おれのひと振り」によって味が変わったこと、香りが追加されたという事実が、「うまい」のだ。

大衆中華料理店で、テーブルに酢やしょうゆ、ラー油にコショウなどが置いてなかったりすると、どこか物足りなく感じてしまう理由はこれだ。お客は、わたしは、「おれのひと振り」がしたいのだ。

そうやって考えると、大衆中華料理店でのラーメンやチャーハンは、なるべく平凡な味であることが望ましい。独創的なうまさやオリジナリティを模索するのは餃子から先の単品おかずメニューで、主食たるラーメン・チャーハンでは平凡を極める。お客に「おれのひと振り」を提供する。いわばハンドルの遊び的なものを残した味に着地させるのだ。

たぶん本の世界においても、読者をめっためたに論破するが如き隙のない本よりも、すこーしハンドルの遊びを残したような、読者との対話の余地が生まれるような、そんな本のほうがおもしろいのだろう。

隙のない人、隙のない本、隙のない味は、意外とつまんないものだ。

……と昨晩、大衆中華チェーンであるところの日高屋で晩飯を食べながら、そんなことを思いました。ごはんをヒントに考えられること、たぶんいっぱいありますよね。