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ぼくはこんな本をつくりたい。

このところ、時間を見つけては「スーパーマリオラン」をやっている。

深夜のベッドにもぐり込み、時間を忘れてひたすらに、マリオをジャンプさせている。この忙しい最中になにをやってるんだ、と自分でも思うし、幾人もの編集者さんからガチギレされそうだけど、それでもとにかくやっている。


出版の未来を語るとき、音楽業界を引き合いにあれこれ語る人は多い。アナログからデジタルへ、物販から配信へ、海賊版(コピー商品)との闘い。いろいろ重なる部分は多いし、音楽業界はデジタル化とネット化の影響を10年くらい先駆けて経験している。

でもぼくは、音楽業界を引き合いに出版の未来を語る人を、その言説を、あんまり信用していない。それはたぶん、本と音楽をあんまり好きじゃない人による発想じゃないかと思うのだ。

音楽と比較して語ることのできるコンテンツは、おそらく映画だろう。両者に共通するのは、それが「時間の芸術」である、という点だ。音楽も映画も、そのコンテンツを何分で消費するのかの決定権は、制作者サイドにある。3分間のラブソングを、1時間かけて聴くことはできない。90分の映画を、180分かけて観ることはできない。CDやDVDでいえば「再生時間」の主導権は観客側にはない。リピートすることによってしか「没頭」のできないコンテンツ、とすることができる。

本と音楽は、産業構造としての類似性こそあれ、お客さんの消費構造としてはずいぶん違うものだと言わざるを得ない。

他方、1冊の本をどれくらいの時間をかけて読むか、その主導権は完全に読者にある。「時間を忘れて没頭」できるのが、本というコンテンツの醍醐味であり、逆にいうと可読時間の不明性が本のとっつきにくさでもある。

そして、時間を忘れて没頭できるコンテンツの、もうひとつの代表格がゲームだ。RPGは、その物語性において小説的なのではなく、没頭性においてこそ小説的なコンテンツなのだ。


……という話は、たぶんぼくの友だちなら何度も聞かされたぼくの持論だと思うけど、その目で出版の未来を考えるといろんなヒントが見えてくる。

たとえばスマホの登場によって、広告モデルの「ちいさなゲーム」が増えてきた。あるいはアイテム課金型の「おわらないゲーム」も増えてきた。いずれも適度な没頭性を保ちつつ、ほどよい時間つぶしのコンテンツとして定着しているし、たぶんネット上では「ちいさな本」や「おわらない本」のニーズも今後ますます高まっていくだろう。

でも今回、スーパーマリオランをやり込んでみて、つくづく思った。

ぼくらがゲームに求めているのは、達成感なのだ。コースの最後に旗をとること。ステージの最後にクッパを倒すこと。そして最後の最後にピーチ姫を救出すること。ほっぺにキスしてもらうこと。あの達成感をめざして、ぼくらはゲームに没頭している。「ちいさなゲーム」や「おわらないゲーム」がどこかもどかしいのは、達成感の脆弱さなのだ。

たぶん本が本として今後も欲望され続ける道があるとしたら、やっぱりこれでなくっちゃ、と思ってもらえる道があるとしたら、それは読了したときの達成感であり、おおきな意味での「読後感」を設計することなのだろう。


時間を忘れて読みふける没頭性と、おおきな山を登りきったような読後感。

あいまいなことばではあるものの、来年はその両者を兼ね備えた、とびっきりおもしろい本をたくさんつくっていきたい。

以上、なんとなく来年への宿題を記しつつ、2016年最後の更新とします。

今年も一年ありがとうございました。