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もしも自分が時代劇の住人だったなら。

おとなになったら、そう呼ぶのだろうな。

中学生くらいのころ、いつか自分も両親のことを「おやじ・おふくろ」と呼ぶものだと思っていた。父親に向かって「なあ、おやじ」と呼びかけ、母親に向かって「おふくろも身体に気をつけて」などと声をかけ、熱燗の一杯でもあおるのだろうと思っていた。ところが不惑の四十代も半ばをむかえた現在、いまだに「おやじ・おふくろ」と呼ぶことはせず、きっとこの先もそのことばを口にすることはないだろうと思っている。

同じく言うと、おじいさんになったら自分のことを「わし」と呼ぶのだろうと思っていた。「わしも若いころは」と過去を振り返り、若輩者を「わしを誰だと思っとるんじゃ」と叱責するのだと思っていた。けれどもやはり、いまだ自分を「わし」と呼ぶ気配はなく、おそらく今後も「ぼく」と「おれ」の二刀流で生きていくのだろうと予想する。


日本語には、ぼくやわたしやおれやわし以外にも、たくさんの一人称代名詞がある。「おいら」もあるし「おら」もある。「自分」や「当方」だってそのひとつだろうし、「手前」なんて言い方もある。基本的に「ぼく」で統一しているこのブログの一人称代名詞を仮に「おれ」で書いたとした場合、同じ内容であってもそこから受けとる印象はかなり違ったものになるだろう。

ただ、ほとんど無意識のうちに「ぼく」を選んでつかっているぼくだけど、それは現代社会を生きるうえでの利便性を理由に選んでいるだけの話で、時代が違えば「拙者」でも「それがし」でも「吾輩」でもなく、たぶん「あっし」をつかっているだろうな、と思う。

へえへえ、あっしが思うにですね、親分。
そんなこたぁ、あっしにおまかせくだせえ。

そんな感じでずっと、町人のしがない子分としておのれをアイデンティファイしていただろうし、ぼくのつかう「ぼく」はきわめて「あっし」に近い子分感を醸し出しているのだろうと想像する。いいなあ、あっし。どこかでつかってみたいなあ、あっし。


あの人やこの人がつかっている「わたし」や「おれ」や「ぼく」を、時代劇のことばに翻訳してみると、自分がその人をどんなキャラクターとして認識しているのか、いろいろ明らかになると思います。