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なめられたくない、という動機。

ぼくは、たぶん「高い」といわれるであろう腕時計を、2本持っている。

腕時計への興味は、まったくなかった。たとえば、当時のぼくがロレックスの広告を見る目は、ほとんどバイアグラの広告を見るようなものだっただろう。それくらい自分には無縁で、軽蔑や憐れみの対象でさえあった。

それがあるとき。三十歳を少し超えたとき。

本の仕様に関して、日本を代表する印刷会社のお偉いさんたちと打ち合わせをする機会があった。スーツを着たおじさんたちの前に、ぼくはポロシャツと短パン、サンダルという風体で現れた。「襟がついてりゃよそ行きだろう」くらいにしか考えてなかったバカボンなぼくは、初対面のおじさんたちに囲まれながら、打ち合わせ中ずっと心細さを感じていた。なにがこんなに心細いんだろう。おれはスーツを着ない人間じゃないか。それなりにはがんばってきたライターじゃないか。卑下する必要、どこにもないじゃないか。心細さの出どころを考えていったとき、はたと気がついた。

腕だ。すっぱだかの、左手首だ。

おじさんたちはみんな、重厚な腕時計を袖口から覗かせていた。ぼくが慣れ親しんだスウォッチやGショックではない、そしてシチズンとかでもない、たぶんロレックスとかオメガとかの、いわゆる高級腕時計だ。別に宝石がちりばめられているわけでもないのに、それはぼくのようなサンダル男が見ても一目でわかるくらい、高級で重厚なものだった。


その週のうちに、当時の自分からするとびっくりするほど高い腕時計を、ひとつ買った。パソコンやアーロンチェアよりも高いものを買うなんて考えたこともなかったけど、とりあえず買った。「たかがこんなもの」がこんなに高いのか、という気がしないでもない。

でも、「たかがこんなもの」のせいで見くびられてしまうのが世の中だとしたら、持っておいたほうがいい。身につけておいたほうがいい。だって、ぼくはこれ以上「たかがこんなもの」に振り回されたくないのだから。

なめられたくない、見くびられたくない、は立派な動機だと思う。


そろそろもう1本、買おうかなあ。

まだまだぼくには「見くびられたくない」があるものな。


きょうの「今日のダーリン」を読んで、思い出したお話でした。