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「ああ」の続きが聞きたくて。

東京に帰ってきた。

車で気仙沼までの旅から、東京の自宅に帰ってきた。ひとしきり犬を撫で、寝室まで歩いていったぼくは倒れるように眠りこけた。ぐらぐらな意識のままに現在、眠気覚ましのコーラを飲みながらパソコンに向かっている。

またくるよ、また会おうね、きっとだよ。
いつも気やすく、ぼくらは言う。
果たせないかもしれない約束を、気やすく交わす。
そうでもしないと別れることは、さみしすぎるのだ。
気持ちよく笑顔で手を振ることが、かなわなくなるのだ。

旅の最後の原稿にぼくは、こんなことを書いた。今回の旅では、ほんとうにたくさん手を振った。ぺこぺこお辞儀しながら別れるのではなく、気持ちよく手を振ってたくさんの人たちと別れた。順序を入れ換えていうとそれは、たくさんの人たちと出会った、ということでもある。

たのしい仲間たちと別れ、眠気をこらえながら自宅でこれを書いているぼくはいま、さみしいのだろうか。

決してそうじゃないことに気づくことができたのも、今回の旅だった。

たとえば車をどこかに停め、外に出て、仲間たちと同じ景色を眺める。田中泰延さん、浅生鴨さん、永田泰大さんと一緒に、同じ場所で同じ風を受け、同じ景色を見る。その目に映る景色に、頬をすり抜ける風に、みんな「ああ……」と同じ音を漏らす。

けれども「ああ……」に続くことばは、ことばにできなかった思いは、それぞれまったく違う。ぼくたちがほんとうに共有できるのは、「ああ……」ということばとも音ともつかない喉の震え、それだけだ。

もし『さみしさ』の定義を「自分の思いを誰とも共有できないこと」だとするなら、ぼくらはひとりでいるときよりむしろ、他者とともにあるときのほうがさみしいのかもしれない。人は、ほんとうにたったひとりで生きていたら、孤独を感じる理由もなくなってしまう。人は、他者に取り囲まれて生きているからこそ、孤独を実感するのだ。孤独を感じるにはまず、他者が必要なのだ。

一方でまた、同じ「ああ……」に続く他者のことばを知れることは、このうえなくおもしろいことでもある。豊かなことでもある。ぼくは「ああ……」の続きが聞きたくて仲間と集い、本を読み、音楽を聴いて映画を観ているのかもしれない。

ああ、ぼくはいま、とっても眠たいよ。

ああ、できれば今夜は、犬と一緒に眠りたいよ。