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共感せずに、理解をしよう。

「自分が理解できたことだけを書こう」

若いライターさんに、よくアドバイスする言葉です。誰かに取材をして、いろんな追加資料を読みあさって、ああでもないこうでもないと考えつくし、いよいよ原稿を書きはじめる。このとき書いていいのは「その人から聞いたこと」ではなく、「自分が理解できたこと」だけなんですね。


理由はおおきくふたつあります。

第一の理由は、「自分が理解できていないことを誰かに伝えるなんて、ましてやそれを理解してもらうなんて、無理に決まってるでしょ?」というシンプルなもの。これはまあ、割に納得してもらいやすい話だと思います。

もうひとつの理由は、「理解と共感はぜんぜんちがう」ということ。きょうの本題はこちらです。

取材相手の考え、発言、価値観について、共感できないことは当然あるでしょう。もちろん原稿を書くうえで取材相手に共感できればそれに越したことはないのですが、ライターにとっての「共感」とは十分条件であって、必要条件ではないんですね。必要条件は「理解」。ここを混同したライターさんが多いような気がしています。

たしかに「共感」があれば、筆はすいすい進む。書いててたのしいし、その人が憑依したような気持ちになれる。でもねぇ、理解をおろそかにして共感だけで突っ走った原稿は、かならず穴がほげるんですよ。「わかるわかる!」「そうそう!」は、たいていわかってない前のめりだし、仮にわかっていたところで、自分では言語化できていない「感じ」だったりしますから。

そしてもっとおそろしいのは、「自分が共感できるもの」だけを書き続けていくと、いつか行き詰まるということ。ちっぽけな「わたし」から抜け出さない原稿しか書けなくなり、気がつけば「わたし」の枠がどんどんちいさくなる。「外」を覗く機会がなくなってしまう。


だからこそ、ぼくはいっつも「理解」やら「論理」やらの大切さを口にしているんです。たとえ共感できない話だったとしても、理解ができれば、その論理に納得することはできる。「そういう考え方もある」「こういう観点に立ってこんなふうに考えれば、ここまでは言える」という感じで、情で寄り添うのではなく、理で寄り添っていく。共感できないその人の、論の展開を追っていく。

ぼくは「憑依型」といわれるタイプのライターですが、そこでの憑依的なものは、感情のレベルじゃない、論理のレベルでおこなっていることだと思っています。