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おれにぴったり、を探す旅。

平成の30年史を振り返ったわけじゃないけれど、先日ふと思った。

美男・美女の条件として「顔のちいささ」が挙げられるようになったのは、たぶん平成に入ってからだよなあ、と。

時代劇の俳優さん、あるいは舞台に立つ演歌歌手さんなんかだと、顔がでかいことをほめられていた時代が、確実にあった。「舞台映えする」とほめられ、その迫力が風格と同義だった時代が、確実にあった。里見浩太朗さんや北大路欣也さん、高橋英樹さんくらいまでの世代は、顔のおおきさも魅力のひとつとされていた。

けれども80年代の後半くらい、小泉今日子さんの「顔のちいささ」が話題になる。モデル業界なんかだとそういう判断基準もあったんだろうけど、少なくともぼくがほめ言葉としての「顔がちいさい」をはじめて聞いた女性は、小泉今日子さんだった。彼女の顔について、どなたかが「お弁当箱よりちいさい」と表現していたのをよく憶えている。そして彼女をきっかけに90年代以降、「顔がちいさい」は男女を問わないほめ言葉となり、「顔がでかい」はほとんど悪口のようになっていった。

どうしてそんな平成史を思ったかというと、メガネをつくりに行ったからである。おおきなサイズのメガネ、要するに「顔がでかい人」用のメガネをつくりに行ったからである。

帽子選びに苦労するほどぼくは、頭のサイズがおおきい。ぼくだけでなく、古賀家の男性はみんなおおきい。国や時代が違えばそれもポジティブな個性だったのだろうけれど、平成もおわりを告げた日本においてそれは、あまり好ましくない個性なのだろう。無意識のうちにぼくも、自分について「顔がでかい」とは言わず、「頭のサイズがおおきい」と言い換えてしまう。

そして顔や頭のでかい人間にとってのメガネとは、視力矯正の装具というより頭部拘束の責め具で、こめかみや耳を締めつけ、ひたすらストレスを蓄積させるコルセットに近い。

とはいえ視力の低下を如実に実感するようになった昨今、メガネの常用を真剣に検討せざるをえなくなったぼくは、「おおきいサイズのメガネ」を専門に扱うお店に出かけ、つくってもらった。生まれてはじめてかける、ジャストサイズなメガネだ。


感激した。

メガネがこんなに軽く、痛みもなく、スムーズに装着できるなんて、考えたこともなかった。たとえるなら、ずっとハイヒールを履いていた人が、はじめてニューバランスのスニーカーを履いたような感じだろうか。これまでの自分がどんな苦行に耐えていたのか、はじめて理解できた。

靴やメガネはもちろんのこと、椅子や机、まくら、本、映画、音楽、あるいはごはん。なんでも「おれにぴったり」がいちばんいい。

次の週末、メガネを受けとりに行く。視界が「おれにぴったり」になって、世界がぐっと見やすくなる。