見出し画像

不鮮明な輪郭を

なにかを言語化することはたのしい。

よのなかの流れ、ひとびとの動き、局地的に起こりはじめたたしかな波。これらおのおのにピシッとあてはまることばが発明されると、その「なにものか」は一気に市民権を獲得していく。

たとえば、日焼けした10代の女の子がけばけばしい化粧をして、髪を明るく染めて、短いスカートで闊歩している。この段階では「なんだあの子たちは」「最近ああいう子が増えたね」だったりするのだけど、そこに〝コギャル〟という語が与えられた瞬間、そのファッション・風俗は全国区になり、賛否はあったとしても「そういうもの」として受け入れられていく。たとえが古くて申し訳ないけれども。

ある意味これは、もやっとした事象に輪郭を描いていくような作業だ。なんらかの定義づけがなされ、その輪郭が描かれると、指をさして「ああいう子」と呼ぶ以外になかった一群が「コギャル」のひと言で語れるようになる。メディアでも採り上げられやすくなり、ますます拡がっていく。

また、コギャル予備軍の子たちにしても、なにをして、なにを揃えれば自分も「コギャル」になれるのか、かなり明確になる。「コギャル作成キット」とでも呼ぶべき廉価な商品群も発売されるだろう。

しかし、そうやって輪郭が太く、黒くなっていくほど、当初の「ああいう子」たちが持っていた勢いやおもしろみが失われていく。きっと輪郭というものは、薄くて不鮮明なほうがおもしろいのだろう。むかしは不良品扱いされていたはずの「はね付き」のたいやきがやたらおいしいように。

なにかを言語化するとき、輪郭を描くときには、そこで失われるものについても自覚的でないといけない。

……というようなことを、推敲中の原稿を読んで思いました。今週〜来週はレッドゾーンです。