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ぼくが短パンを脱いだ話。

足もとを見れば、そこにはスニーカーがある。

きょうのぼくは、アディダスのスニーカーを履いている。犬がおおよろこびでくんくんしそうなスニーカーを、履いている。ちなみに、ひとの弱みにつけ込んで、ちくちく婉曲な嫌がらせをする慣用句に「足元を見る」なんてことばがあるけれど、ほんとうに足もとを見てくれるなよ、という場面がたまにある。

ドレスコード、というやつだ。

それがどういうお店なのかぼくにはわからないけれど、たぶん世のなかにはスニーカーで入店すると怒られるというか、少なくとも露骨に嫌な顔をされる店というものが存在する。ぼくが飲食したことがあるレベルの、すなわち「中の上」とか「上の下」クラスのお店でも、短パン・サンダルを禁止しているお店はよく見かける。

むかしはこのドレスコード、単純に「あーたみたいな万年スニーカー野郎なんて、うちのお客じゃございません。どうせお金もないんでしょ? きのうは牛丼だったんでしょ? さっさとお引き取りください」と断られているのだと思っていた。ゆえに憤慨し、こっちから願い下げじゃ、と大衆食堂での飲食に明け暮れていた。

しかし誰かから、あれは店のオーナーがおのれの満足のため下賤な客を排除しているのではなく、「他のお客さん」のため、ドレスにコードを設けているのだと聞かされ、おおいに得心した。

たとえば恋人にプロポーズしようと奮発してやってきた高級レストランで、隣の客が短パン・サンダル姿で「とりあえず、ビール!」「おれもビール」「ビールの人、手挙げて」「いち、にい、さん、しい、じゃあ生を5つと、えっ、お前ウーロン茶? 最初の1杯くらい付き合えよー」なんて華丸大吉の漫才風に騒いでいたら、それはいろいろ台なしだろう。ご迷惑だろう。

ドレスにコードを設けることによって、もっと言えば「その場にふさわしいユニフォームを着ること」によって、われわれは自らを律し、他者への迷惑を鑑み、「お互い気持ちよく過ごしましょうね」を確認し合うのだ。ドレスコードとは、あなたのため、わたしのため、つまりはみんなのために、存在するのだ。


というドレスコード話を知る以前、つまりはコードを破ってこそおれだ、と勘違いしていた20代のあるとき。とある大手出版社への打ち合わせに、短パンとサンダルで出向いた。ばかやろう、「これ」は「おれ」であって、そのおれを「これ」ごときで否定するというのなら、こっちから願い下げじゃ。音羽がなんぼのもんじゃい。そんなよくわからない熱情をもって、打ち合わせに出向いた。担当の編集者さんは物腰もやわらかく、またぼくのことも高く評価してくださっていて、これからも一緒にいろんな本をつくっていきましょう、とうれしいことを言ってくれた。

そして「あっ。ちょうどいま、部長がいるんでご紹介しますよ」と、編集部の奥へと案内していく。せいぜい部長さんの机に出向いて挨拶する程度だと思っていたら、よせばいいのに会議室の空きをさがし、会議室で面会させると言い出す。

やってきた部長さんは、そのフロアを統括するけっこうなお偉いさんで、いかにも生真面目な眼鏡をかけた60代くらいの女性だった。真夏だというのにツイードっぽいスーツ姿だった。

Tシャツ姿のぼくを見て、短パンとサンダルに目を落とした彼女は露骨に嫌な顔をし、挨拶もそこそこに去っていった。素足で毛虫を踏んでしまったような、襟元にカメムシが入り込んでしまったような、そんな顔だった。

以来ぼくは「こんなこと」で評判を落としてちゃ、どうしようもねえなあ、と改心し、よそを訪ねるときには短パン・サンダルを履かないことにしている。「こんなこと」でなにかを証明せんとしていた若かりし「おれ」の、あまりの小ささに、われながら情けなくなったのだ。

なんの話をしているのか。

ライター仲間の大越さんがこんなことをおっしゃっていて、いまの自分が「短パン」のひと言から書くとしたら、どんな話になるかなあ、と思った。それだけの話である。ビジネスに役立つ教訓は、なにもない。



それはそうと「スーツ」や「背広」という洋服は、だんだんと「相手の気分を害さないためのユニフォーム」になってきていますよね。

最近、ちゃんとしたスーツを着た人と、お仕事していないなあ。