誰が、なんと言ったらおれは。

誰がなんと言おうと、〇〇○である。

一般にこれは、不退転の決意をあらわすことばだ。「誰がなんと言おうと、マクドナルドの最高傑作はソーセージエッグマフィンである」みたいなどうでもいい話から、「誰がなんと言おうと、わたしはこの事業をやり遂げる」くらいに鼻息の荒い話まで、議論の余地がないくらいに決まりきった事実、あるいは決意を示すことばとして、ひとは「誰がなんと言おうと」の語を、あたまにつける。

ぼくはこれ、とてもいいことばだと思っている。

なぜなら多くの場合ひとは、というか少なくともぼくは、ほんとうの「誰がなんと言おうと」を持ちきれていない。好悪について、仕事について、生き方について、それほど強い確信を持たないまま、いわばゆるい確信を持った状態で生きている。選んでいる。その道を歩んでいる。

なので、じぶんがなんらかの「確信めいたもの」を持って遠くや近くを眺めているとき、その視点しか持ちえなくなっているとき、じぶんにこう問いかけてみるのだ。


「おまえは、『誰が』『なんと言ったら』その考えを翻すのか」


たとえば、ぼくが「黒澤明の最高傑作は『生きる』である」と思っているとしよう。でも、めっちゃくちゃに尊敬する誰かが、「いいや、黒澤明の最高傑作は『酔いどれ天使』なのだよ」みたいなことを言い、その理由をしっかり語ってくれたらたぶん、ぼくは翻意する可能性がぜんぜんある。

このときスピルバーグが「黒澤の最高傑作は『七人の侍』だよ」と言ったとしても、その理由をあれこれ語ってくれたとしても、ぼくは「いやいや、アメリカ人のあなたにとってはサムライ話がいいかもしれないけれど、日本人のぼくらにとっては黒澤さんの現代劇が最高なんですよ」みたいに首を振りかねない。

じゃあ、誰なのか。

誰の、どんなことばにおれは、態度を改めるのか。


……というように、せっかく「誰がなんと言おうと」の決意を語るのであれば、ほんとうに「ものすごい誰か」が、「とてつもなく説得力を持ったことば」で翻意を促してきたさまを一応は考えておかないと、もったいない気がするのだ。

じぶんと遊び、じぶんをもっと知るチャンスは、いろんなところに転がっている。

椅子の上にも3円。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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コメント1件

「揺れ動く気持ち」を楽しむことが、「自分と遊ぶ」という意味であっていますか?何事も勇気なんですね。
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