ある格闘家の記憶。

なかなかにむずかしく、おもしろい話だなあと思う。

なにかのきっかけで、ふとチェ・ムベという格闘家のことを思い出した。10年以上前に大ブームを迎えていた総合格闘技イベント「PRIDE」に出場していた韓国人選手だ。ああ、たしか彼のインタビュー記事をパソコンのどこかに保存していたな、と思い出し、フォルダをごそごそとあさった。目当ての記事は無事発見された。

当時、あまりに凄惨なファイトで恐れられていたロシア人選手のセルゲイ・ハリトーノフとの対戦を控えた彼が、たしか韓国の格闘技雑誌か格闘技サイトで答えたインタビュー。それを日本人のブロガーさんが翻訳したものだ。SNSもなかった当時、かなり拡散したのをおぼえている。少し整えたかたちで、以下にまとめる。

—— 趣味はなんですか?

チェ・ムベ  インターネット囲碁です。

—— 好きな女優、芸能人は?

チェ・ムベ  内緒です(笑)。

—— どういうタイプの女性が好きですか?

チェ・ムベ  苦労してない人にあこがれます。わたしは地獄のようなレスリング訓練、兵役、軍隊での人間関係、怪我によるレスリングでの挫折と絶望、交通事故と入院、そして、それによる経済的困窮、そこから逃れるための荷役仕事……と苦労続きの人生でした。ですから、苦労と縁のない天真爛漫な人にあこがれます。

—— だから、女優のキム・テヒさんが好きなのですね?

チェ・ムベ  どうしてそれを知ってるんだよ?(笑)。内緒にしてたのに、まったく! 誰が教えたんだ?(笑)。

—— 苦労つづきの人生とおっしゃいましたが、総合格闘家としての現在に至る経緯は?

チェ・ムベ  交通事故で入院しているときに、ひとりの友達ができました。彼はわたしよりも20歳年下の少年でした。しかし、わたしが退院する一週間前、彼は亡くなってしまいました。わたしは、お金も、レスリングも、健康も、名誉も、なにもかも失い、しかも友達まで失ったのです。じつは、彼とのあいだにひとつの約束がありました。それは二人とも退院できたら、わたしがレスリングを教えてやるというものでした。「二人でレスリング金メダリストになろう」なんて語り合っていたのです。
 退院後、わたしは荷役の仕事を必死にやりました。そして、貯めたお金と借り入れたお金で道場を開きました。彼との約束を果たすためにね。道場の経営も、格闘家としての仕事も、わたしにとっては同じなんです。両方ともチャレンジですから。彼はもういません。だから、わたしがやるしかないのです。

—— ハリトーノフの試合は怖くない?

チェ・ムベ  怖いとか、怖くないとか、そういう問題じゃないんです。やるんです。とにかく試合をする。逃げずにね。負けないことでなく、逃げないことが、わたしの誇りです。人生と同じです。わたしの尊敬する荘子が書いてますが、「人生とはなにか?」と考えようが考えまいが、すでに人生は始まってしまっているんです。人生がなんであろうと、生きるしかない。オファーがあった時点で「逃げるのか、逃げないのか」という戦いが始まっているのです。それこそが勝負です。

—— 試合への抱負は?

チェ・ムベ  アジアのために戦います。

—— それはなぜですか?

チェ・ムベ  多くのファイターがこの試合を拒んだと聞いています。そのなかにはアジアの選手もいます。わたしは、アジアの人間でもやれるんだということを示したい。逃げない姿を見せたい。

—— もう一度聞きます。怖くないですか?

チェ・ムベ  人生はお風呂じゃないんです(笑)。適温かどうか確認してから入ることはできない。すでに始まっているのだから。……わかるかい? 怖いか怖くないかじゃない。逃げるのか逃げないのか、なんだ。わたしは逃げない。いや、わたしが逃げないのではない。逃げない男、それがわたしであり、そいつの名前はチェ・ムベなんだ。

—— 若い格闘家に忠告か助言を下さい。

チェ・ムベ 人生は方程式じゃない。人生は、解を求めるものじゃない。絶対に解けないようになっている。そして、その問いを与えられたときの「態度」こそが、答えなんだ。それが人生だと思う。ある者は「解けないなら解かない」と問題を投げ出す。ある者は必死に努力する。答えがないのを承知で。

—— 技術的なことや、栄養学的なことで助言はありますか?

チェ・ムベ  そんなことをいま、忠告として話すつもりはないのです。あなたは望まないだろうけど、さっきの話を続けます。人生には答えはない。「あるかもしれない答え」を必死に探すのが人生でもない。「ないとわかってる答え」を探すのが人生なんだ。若い人にはむずかしいだろうけど、それがわたしの助言だ。栄養について知りたければ「月刊マッスル」でも読んでくれ(笑)。

—— ハリトーノフ選手に勝ちたいですか?

チェ・ムベ  勝ちたいとか勝ちたくないとか、そんなことはどうでもいいんだよ(笑)。逃げないことが大事なんだ。勝とうとする姿勢、ひたすら逃げずに頑張る姿勢を届けたい。もしわたしの肉体が滅んでも、見ている人の精神に届けばいい。肉体はいつか滅び、誰かの記憶に変化する。逃げない男がアジアにいた。それは誰かの記憶になった。そいつの名前がチェ・ムベだったなんてどうでもいい。ただそいつが決して逃げない男だったという記憶が、宇宙の片隅に誰かの記憶として残ればいい。


それでね、ぼくはこのチェ・ムベという選手について、もう顔も忘れちゃっているんですよ。残念ながら。どんなファイトスタイルだったかも忘れてるし、ハリトーノフとの試合だって、たしか一方的に殴られて終わっちゃったんだよなー、くらいにしかおぼえていないんです。

それでも、彼のこのインタビューだけは、いまでもはっきりおぼえているし、ときどきこうやって思い出すんですよ。まさに、彼が予言したそのままのかたちで。

馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

ふむふむ

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