大雪のパーティーがおわったあとで。

雪の降る日に雪の話を書くなんて、いかにもつまらない。

けれども雪の降る日でもなければ実感のこもった雪の話なんて書けないのだから、しかもきょうは東京地方にとっての初雪なのだから、メモとして、備忘の記録として、なにか書いておいたほうがいいだろう。

福岡と東京にしか住んだことのないぼくにとって、雪は「めずらしいもの」である。そしてふわふわと空から舞い降りてきた雪は、それが地表に到達するとき「うれしい雪」と「残念な雪」のふたつに分かれる。すなわち、積もるか、積もらないか、だ。雪だるまができちゃうくらいの大雪になれば、困っただの参っただの靴がべちゃべちゃだのと憎まれ口を叩きながらもほんとうは、ちゃんと心が浮ついている。雪国では別なのだろうけど、やっぱりぼくにとっての雪とは「積もるにかぎる」ものなのだ。

ただし、もうけっこうな経験を重ねた大人でもあるのでぼくは知っている。

雪は、さみしい。仮にきょうの雪がわんさか積もったとしても、校庭の子どもたちが雪だるまをつくって、雪合戦に興じて、あーんと口を開けながら空を見上げてくるくるまわっても、せいぜい数日のうちには雪も止んで曇天や晴天になる。道路の雪はタイヤと靴とに踏みしめられ、べちゃべちゃになり、やがてからからになっていく。先週の月曜日に雪が降ったことさえ、来週のぼくたちはうまく思い出せなくなっていく。

なのにきっと、日陰の植え込みなんかには、シャーベット状のまま固まった氷が、雪の名残が、来週もずっとそこにしがみついている。泥と一体化し、排気ガスなのかなんなのか灰色の塵をまとったかつての雪たちが、成仏のかなわなかった魂のようにじっと、しがみついている。あるいは夜通しのパーティーが終わって、酔いの醒めた会場に散乱する、ひしゃげた紙コップのように。

子どものころ、ぼくはあの雪の残骸を見るのがほんとうにいやだった。日陰、ということばをあれほど具現化したものもほかにない気がする。


大雪のパーティーはいまでも大好きだけど、パーティーのあとにはいつも、それと同じくらいのさみしさがやってくるんだ。

桃栗三年、カキうまいねん。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。