好き好き大嫌い。

わたしはあのひとが好きです。わたしはあのひとが嫌いです。

もしもこのふたつをもっとのびのびと、もっと大っぴらに公言できるようになれば、よのなかずいぶん生きやすくなるんだろうなあ、と思っています。それが言えないから、みんな苦労するんだよなあ、と。

わかりやすく「嫌い」のほうで説明しましょう。

たとえば、「おれ、あいつが大っ嫌いなんだよ」というひとがいたとします。まあ、別にどうでもいい話ですよね。ここの「あいつ」に入るのが特定のモノであっても、国や組織であっても、ナントカ派みたいなグループであっても、好きや嫌いの感情を制限することはできない。「へえー、嫌いなんだ」で終わらせておけばいい話です。

ところがひとは、ぼくらの生きるよのなかは、そこに「なんで?」の問いを差し向けます。直接訊くことをせずとも、根拠を語らないといけないような、そういう「圧」がどこかあります。

そこでひとは「嫌い」の根拠を語りはじめるわけですが、まさか「なんかムカツク」と言うわけにはいきません。それらしい根拠を拾い上げ、でっちあげの論理をくっつけて、自身の「なんかムカツク」に理屈をつけていくわけです。

さて、こうして理屈のついた「嫌い」は、それが感情ではなく自明な論理であるかのような錯覚を抱かせます。「なんかムカツクから嫌い」だったはずのものが「あやつはかくかくしかじかの理由によって悪である。だからわたしは許せぬのだ」という、善悪の問題に転化していきます。悪を許さぬわたしは善なのだ、に発展していきます。

こうなるともう、好きだ嫌いだの話ではありません。撲滅すべき悪に立ち向かう、ちょっとした聖戦。全面戦争に突入してしまいます。


だからね、正しいとか間違ってるとか、善だとか悪だとか、そういう思いがむんむん充満してきたときには、「うっそじゃーん」って自分ツッコミを入れる習慣をもっておかないと危険だと思うんですよ。「要するに、なんかムカツクんでしょ?」って。

そしてできれば個々人の「好き」と「嫌い」に寛容な、それ以上の説明を無闇に求めないような空気が醸成されれば、よのなかもっと自由になると思うんですよね。「わたしはあなたを愛しています。なぜなら……」って語りはじめた途端、そのことばはウソになるわけですから。

そこでつくウソのことを、ビジネスと呼ぶのかもしれません。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

creative notes #1

コメント3件

嫌いなのは、きっと自分にとって負い目があるからころ反発するのではないかと。好きなのも、、もしかしたらそうなのかもしれません。ビジネスもそうなのかも。
正当化を語り始めた時に始まるのは、政治であるような気がします。
同じテーマで全く別の結論の話をまとめてましたので、非常に勉強になりました。
私自身は「スキキライ」はあった方がいいと思っていて、ただし自分の中での話。
それを「コミュニケーションとして利用する」タイミングでは、おっしゃる通り出し方を考える必要があるかもしれませんね。
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