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どんなことばを避けるのか。

自分ではなるべく使わないようにしよう、と心がけていることばが、いくつかある。

たとえば「腹落ちした」という言いまわし。ぼくの記憶のかぎりでは、これは十年ほど前からコンサル・人材開発系のひとたちが好んで使うようになったフレーズで、いまでは大勢のビジネスパーソンが口にしている。そのことばを使うことによって、本来よりも多くのことを言えたような気になっている(ようにぼくには見える)。たしかにはじめてこの語に触れたとき、おもしろい言いまわしだな、とぼくも思った。「納得した」や「腑に落ちた」よりもわかりやすい肉体性が、そこにはある。きっとこの語を発明したひとも、使い古された「納得」では言い表せないなにかを表現しようとしてこれを使い、そのおもしろさや的確さが認められてこれだけ広まっているのだろう。

しかし、である。ここまで市民権を得て、ちょっとした流行語のようにまで育ってくると、今度は「腹落ち」の語義や用例が固定化され、そのまま使っていたのではこぼれ落ちるニュアンスが生まれてくる。そしてもしも文章を書くうえで求められるセンスのようなものがあるとすれば、いかにして日常に転がる「腹落ち」的なことばに目を光らせ、その語と自分、さらには対象との距離をつねに測定し、もしも自分が使うとするならどのような場面のどのようなタイミングなのかをシミュレートし、できうることなら「納得」でも「腹落ち」でもない、あたらしい言いまわしが残されていないかを探して歩く。そんな日々の意識のことをひとは、「センス」と呼ぶのではないか。逆にいうなら、その対象に関してひたすら無自覚で、客観性を欠いたさまのことを、「センスがない」と呼ぶのではないか。きっと伝わりにくいところだろうけどぼくは、そう思っている。


で、ほんとうに書きたかったのは「腹落ち」の話でも「センス」の話でもない。たとえ話がずるずる長くなって本題から遠く離れた場所で我にかえるのはぼくの悪い癖なのだけど、きょうぼくが書きたかったのは「自分ではなるべく使わないようにしよう、と心がけていることば」の話だ。とくに編集者やライターが使いがちな、ある慣用表現の話だ。


編集することを「編む」と呼び、文を書くことを「紡ぐ」と呼ぶひとたちがいる。文を編むひととして編集者の自分を定義し、文を紡ぐひととして書き手の自分を定義する。その、いかにも自己陶酔的な言いまわしに長らく距離を置いてきたのだけど、先日それがぼく個人の自意識や美意識に由来するケチな「違うんじゃないか」ではなく、もっと実用に即したところでの「そうじゃないよ」であったことに気がついた。

先週、長野のフィンランドヴィレッジという場所で、座禅を組む機会に恵まれた。京都からやってきたお坊さんは、座禅のキーワードとして「ほどく」ということばを挙げられていた。身体をほどき、こころ(自我)をほどき、果てには自分の存在そのものをほどいて周囲(自然)との輪郭線を消失させていく。こころを空にするのではなく、ひたすらほどいていくことが、座禅のありかたなのだと、お坊さんは言った。

ぼくは思った。「ほどく」とは、「編む」や「紡ぐ」と正反対にあることばであり、こころのめざす先だ。そして考えてみればぼくはずっと、対象を「ほどく」ことを目標にして取材をし、文章を書き、編集してきた自覚がある。ああ、ぼくがずっとやってきたことと、これからもっとやろうとしていることは「ほどく」なんだ。だから「編む&紡ぐ」のひとたちに距離を感じてきたんだ。

もっとも、「編む」や「紡ぐ」のぜんぶが間違いで、「ほどく」が正しいと言っているわけではない。ただ、座禅という非日常のなかでそんな(思いっきり仕事に結びついた)キーワードが出てきたことがおもしろかったのと、これはもう少し整理して本に書けると思ったので、忘れないうちにサラッとことばにしてみた、それだけのことである。


さあ、きょうはベルギー戦ですね。

興奮なのか単なる寝不足なのか、家にパソコンを忘れてきてしまい、これから夜まで資料を読み込むばかりの仕事をします。