ロックおじさんとアンプラグド。

書くことが思い浮かばないときは、犬か音楽の話をする。

そんなルールを設けながら続けてきたこのnote。そういえば最近、困ったときの犬頼みばかりで、あまり音楽について書いていない。そして犬について書くときはけっきょく「かわいい」以外の話ができておらず、さすがに自分でもどうかと思うことが多い。なのでたまには音楽について書いてみよう。

ぼくが学生だったころ、音楽業界にMTVの「アンプラグド」旋風が吹き荒れていた。有名なところでいえば、この番組をきっかけに大復活を果たしたエリック・クラプトン。

あるいはヴォーカリストとしての才気を見せつけたニルヴァーナ。

あなたは別にいいでしょうに、とツッコミたくなるボブ・ディラン。

ニルヴァーナのように、若手がアコースティックでやることによって(ひょっとしたら過小評価されていたかもしれない)実力を見せつける、という側面もこの番組にはあったのだけど、それ以上に自他ともに認める若年寄だったぼくがうれしかったのは、ベテラン期にさしかかったミュージシャンたちの再評価だった。

ローリング・ストーンズというバンドの音楽遍歴を見ているとそれがよくわかるのだけど、60年代にデビューしたミュージシャンたちは80年代、一様に道に迷っていた。迷走していたし、正直かっこわるかった。

"Bad Love" という「いとしのレイラ」そっくりなシングルをリリースしたクラプトンが、当時のインタビューで「ほんとうは自分の好きなブルーズ・アルバムをつくりたいんだけど、レコード会社がそれを許してくれないんだ。彼らが望むのはいつも『現代版レイラ』なんだよ」と語っていたのを、いまでもよく憶えている。そして当然、現代版のレイラがレイラを超えるはずもなく、しかも中年期にさしかかっているクラプトンの「現代風」アレンジは、ちょっと古くてオーバープロデュース気味なものになる。

アンプラグドという企画が画期的だったのは、おじさんたちに「無理」を強いなかったところだ。もう時代に寄り添おうとしなくていい、現代風アレンジなんて考えなくていい。ただ音楽をはじめたころのような、あるいはスタジオでジャムっているような、そんな「生」の音だけを聴かせてくれ。

けっきょく、一歩間違えば懐古的な企画になるところだったアンプラグドは、「おとなのロック」として消費され、数多の中年ミュージシャンに「あ。これでいいんだ」の気づきを与えた。

アンプラグドに出演したクラプトンはもちろんのこと、出演することのなかったローリング・ストーンズが「時代を追いかけない音」で復活することができたのは、やはりあのムーブメントがきっかけだったと思っている。

で、なにが言いたいかというと。

どう考えたってぼくは現在おじさん期に突入しているのだけど、そして時代はびゅんびゅん変わっているのだけど、その波に乗り遅れまいとすればするほど自分のおじさん性は露呈していくのだろうなあ、ということ。

さらにはまた「時代はあっちに流れていきそうだ」というとき、いちばん考えなきゃいけないのは「仮にそうだとして、おれはそっちに行きたいのか?」なんだよなあ、ということ。どうも気乗りしないんだよなあ、と思いながらついていった時代の波には、ことさらかっこわるく溺れてしまうんだろうなあ、ということ。最近、そんなことばかりを考えています。