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いちゃもんと言っちゃうもん。

どうしたもんかなあ、と考えていた。2014年の冬のことである。

来年から毎日ブログ(note)を更新しよう、とは決めていた。けれども「すべらない話」のストックは、さほど多くない。おもしろおかしい話を毎日できる自信もないし、数ヶ月としないうちにネタ切れになるだろうことは容易に想像できた。

一瞬、ニュースとコメント式のブログにしようかと考えた。その日の朝刊から気になるニュースをピックアップし、それについてのコメントというか雑感を書いていく。このかたちだったらネタ切れの心配もないし、コメントそのもののおもしろさとは別に「どのニュースをピックアップするか」という部分でも自分なりの視点を提示できそうな気がする。いいねいいね、そうしようか。

1時間ほど考えて、やっぱりヤだな、と思った。

つまらない炎上騒動に発展したり、論争以前の感情的な罵り合いに巻き込まれたり、そこに時間や体力を消耗したりする自分が浮かんできて、そんなのぜったいヤだ、と思ったのだ。


いまあらためて、その形式を選ばなくてよかったと思う。コンテンツとしておもしろくなかっただろうことはもちろんのこと、「いちゃもんをつける対象を探しながら生きて、芸としてのいちゃもんをつけまくる日々を暮らす」というのは、たぶんロクな人格を育てなかっただろうなあ、と思う。

それはいちゃもんをつけようとするお前の心根が腐っているのだ、素敵な人々による素敵なニュースを紹介して、清らかなコメントをつけていればいいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、それは違う。あらゆる寸評は、他人のふんどしありきのことばは、原理的に「いちゃもん」なのである。

いちゃもんで食ってる人、いちゃもんで高い評価を受けている人を、ぼくはあんまり支持できない。いちゃもんでも寸評でもない、その人のことばが聞きたいのだし、そのことばがない人には魅力を感じることができないのだ。


人はたぶん、どんな種類のことばを語っているかによって、何歳からでもその人格を変容させていく。あのとき「いちゃもん」の道を選ばなくてよかったなあ、と心から思うのだ。