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失敗談の前提には「肯定」がある。

誰かの失敗談を聞くのはおもしろい。

若いころ、仕事でこんな失敗をした。恋愛で、こんなに恥ずかしい真似をした。不良ぶって(あるいはインテリぶって)、あんな情けないことをした。まわりにこれほどの迷惑をかけて、目の前がまっ暗になってしまった。生きた心地がしなかった。

失敗談がおもしろいのは、語り手と聞き手の両方が、ある大前提を共有できているからにほかならない。


過去の愚行は、「いまの自分への肯定」があるからこそ成立する。

つまり、「ぼくは若いころ、こんな恥ずかしい大失敗をしたんだよ」の先には、語るまでもない事実として「それでもどうにか生きているんだけどね」があるのだ。その意味で失敗談は、聞いていて気持ちのいい「希望の話」だともいえる。

成功談を語らざるを得ない人は、成功談を隙間なく積み重ねることによってしか「いまの自分」を肯定できない人は、苦しいだろうな、と思う。そしてまた、成功談が羅列されただけの「おれの成功物語」も、読んでて苦しくなってくる。

堂々と朗らかに、失敗談を語れる人になりたい。

自虐でも露悪でもない、希望に満ちた失敗談を語れる人に、ぼくはなりたいのだ。