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『生きているのはなぜだろう。』

ものの起源をさかのぼる本。 

ほぼ日から出版された絵本、『生きているのはなぜだろう。』(作・池谷裕二、絵・田島光二)をひと言であらわすと、そんなことばが浮かんでくる。編集担当者のスガノさんから手渡しで一冊いただき、その日のうちに読み、何度も何度も読み返しながら、うまく感想をことばにできずにいた。いまでもそれができるものなのか、自信が持てないままでいる。

古代ギリシア・ローマ人は芸術に七つの活動領域を認めていた。歴史、詩、喜劇、悲劇、音楽、舞踏、それに天文学である。いずれもそれぞれの女神によって支配され、それぞれの規則と目的とを持っていたが、これらはみな共通の動機づけによってひとつに結ばれていた。すなわち、それらの芸術はすべて、宇宙とそのなかにいる人間の位置とを説明するのに役立つ道具だった。(中略)これら七つの古典芸術それぞれに、現在の数々の文化、科学部門の根源を見つけることができる。たとえば、歴史は近代の社会科学だけではなく、散文で書かれる物語(長編小説、短編小説など)にも通じているし、天文学は予知と解釈という占星術的な働きにおいて社会科学の一面を示唆すると同時に、近代科学の全領域をも代表している。

『映画の教科書』(ジェイムズ・モナコ著)より

『生きているのはなぜだろう。』を読み返すうちに思い出したのは、このことばだった。「生きているのはなぜだろう?」という哲学的に思える問いに対してこの本は、自然科学の立場から答えを提示する。道徳の話ではなく、宗教的な話でもなく、利己的遺伝子が云々といった話でもなく、宇宙につながる壮大な事実を、たんたんとしずかに語っていく。むずかしく、目とあたまを何往復もさせながら読む絵本だ。

哲学(philosophy)の語源であるラテン語の philosophia は、「知への愛」という意味を持っている。そして芸術とはすべて「宇宙とそのなかにいる人間の位置とを説明する」ための道具であり、科学はそのなかから生まれた。

人間の「はじまり」と「おわり」に触れながら、同時に芸術、科学、そして哲学の起源にまで触れるような、そんなすさまじい本だった。