ぼくは「おとな」になりたい。
「けっきょくさ、女の子にキャーキャー言われたかったんだよね」
このことばは、一周まわるとかっこいい。みんないろいろ言うけど、そんなたいした動機じゃないんだよ。偉そうなもんじゃないんだよ。男の子なんてそんなもんだよ。若き日のじぶんをそう振り返って笑い飛ばせる余裕は、落ち着きや潔さ、ある種のダンディズムのようなものまで感じさせる。
でも、ほんとにそうなのか? と疑うじぶんがそこにいる。
もっとていねいに、もっと根っこにあったはずの動機をことばにしたいじぶんが、そこにいる。だってそんなの、あんまりにもおちんちんじゃないか。
おとうととして生まれたぼくは、いつも上を見上げて生きていたように思う。尊敬とか目標とかのかたいことばではなく、いつかその輪に加わりたいひと、あるいは場所を、見上げて歩いてきたように思う。誰かの背中ばかりを見て、じぶんに向けられたはずでもないことばを、じぶんに向けられたもののように信じて、追いかけるばかりの何十年を続けてきたように思う。
たぶん、ようするに、はやく「おとな」になりたかったのだ。
年齢的にはもうじゅうぶんなおじさんなのだけど、ジョン・レノンより年上になって何年も経つのだけど、まだまだ背中は遠くを歩いてて、まだまだ「おとな」は遠くで笑ってて。しかも最近じゃ、じぶんよりうんと若い「おとな」もたくさんいて。
じぶんが「モテ」を起点にしたお話にあんまり興味を持てなくて、それでアドラーというひとの考えにこころをわしづかみにされたのも、なんかその「はやくおとなになりたい」が関係しているような気がします。
きのう、最終的な打ち合わせがおわってほぼ完成形が見えた「嫌われる勇気」の続編。そういう話がたくさん詰まっていることに、あらためて気がつきました。ああ、長かったなあ。