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ミニマリストの定義と対義語。

ミニマリスト、という人たちがいる。

シンプルで、必要最小限な、ほんとうにほしいものだけに囲まれて暮らす、大量生産・大量消費主義のカウンターのようにして注目されるようになった人たちだ。所有からの解放。暮らしのノイズキャンセリング。理屈としてはよくわかる。それがいいよなあ、そうあるべきなんだろうなあ、とあこがれる気持ちだってある。とはいえやはり、おれにはできないだろうなあ、とひとりごちて、ふと思う。

ミニマリストの対義語ってなんだろう?

さっと思いついたのはこの曲なんだけど、違う。マテリアル・ガールであることとミニマリストであることは、たぶん両立する。ミニマリストと呼ばれる人たちはきっと、洗練されたデザインのラグジュアリーブランドの商品を、品よく配置した部屋に住んでいる。少なくともぼくは、勝手にそんなイメージを持っている。

じゃあ、汚主(おぬし)なのか。つまり、ゴミ屋敷や汚部屋の住人たちが、ミニマリストの対義語なのか。

それも違う。ぼくにもその心性があるからわかるけど、汚主たちはなんらかの主義主張があって、能動的にあのライフスタイルを選択しているわけではなく、気がついたらそうなっちゃうだけの、受動的な人たちだ。

もちろんここでマキシマリストなんて政治学的用語を持ち出しても、なんらおもしろみはない。もっと生活実感に根ざしたミニマリストの対義語はなんだろう。


などといった疑問に時間を浪費していたのは、本日ようやく前オフィスに残していた不用品の処分を終え、がらんどうになったその部屋に「まるでミニマリストだな!」と感激したからである。

あたりまえの話だが、およそ3年半前にこのオフィスに越してきたとき、部屋はこの状態だった。いや、床掃除もきちんとなされていたはずだからもっときれいだった。けれどもあれよあれよという間に本や書類や雑貨や家電やガジェットやにそのスペースを占領され、来訪者を拒絶する部屋へと成り下がっていった。

そしていま、ミニマリスト的空間だったはずの新オフィスが早くも、モノであふれかえっている。あんなにきれいだった机の上がもう、雑多ななにかで散らかりはじめている。


ぼくはこれをコタチストと呼びたい。つまり、コタツ主義者と名づけたい。冬の日にコタツを出すと人は、そこから出たくなくなってしまう。それゆえリモコン各種や電話子機、みかんや菓子の入った大皿、コーヒーメーカーにマグカップ、なんなら蛍光灯から吊した長紐にいたるまでのすべてを「手の届く範囲」に配置したがる。コタツに入ったまま眠れるよう、まくら代わりの座布団もあるし、上半身が寒くなってきたときのためフリースやダウンジャケットの類いも近くに脱ぎ捨てているかもしれない。しかし脱ぎ捨てているように見えるそれは、いつでも着られるよう「置いている」のだ。置きかたがちょっと、ラフなだけなのだ。

思えばぼくの机もまったくコタツ的で、手の届く範囲にありとあらゆるものを配置した結果、自分を中心に弧を描くようにしてモノが散乱している。

ミニマリストとは「コタツから出る勇気をもった人」だ。おそらく彼らは冬の朝にも布団のなかでぐずぐずせず、しゃきっと起き出てさっさと小用を足したり、歯を磨いたり、カーテンを開けてまぶしい太陽におはようの挨拶をできる人たちなのだろう。


……すみません。先週一週間のネパール旅があまりに濃厚で、鮮烈で、いままじめになにかを書こうとすればどうしてもネパール話に寄り道したり帰着したりするのが見え見えだったため、自分をごまかしながらこんなふざけた話を書いています。

ネパール、ほんとよかったんですよ。