こんにちは、さようなら。

一般的な表現ではないのかもしれないけれど、漢字で書けることばをひらがなで表記することを、編集の世界では「ひらく」と言う。そしてたぶん、ぼくは仕事で書く原稿でもプライベートのメールでも、漢字を「ひらく」ことの多いライターだ。

ハードSFや冒険小説が大好きだった高校生のころは、漢字を多用していた。マッチョな男子校育ちだったせいもあり、「漢字は男言葉、ひらがなは女ことば」くらいの感覚でいた。あるいはむずかしい漢字を使うことで背伸びしようとしていたのかもしれない。

それが20歳を過ぎたころからひらがなを多用するようになり、最近ではもっと「ひらく」ことができないか、と考えながら推敲しているフシさえある。

ひらがなを多用した原稿について、「やさしさ」や「やわらかさ」、あるいは「ほっこり感」みたいな意図を感じとるひとは多い。そして実際の話、そういう効果はある。おかげでちょっと世慣れたひとたちは、ひらがなにあざとさのようなものを感じ、せせら笑ったりする。

けれどもぼくが漢字を「ひらく」のは、もっと別の理由によるものだ。


たとえば「こんにちは」という挨拶。
漢字で書くとこれは「今日は」になる。「今日は、よろしくお願いします」とか「今日は、ご機嫌いかがですか?」の読点以下を省略したことばが、「こんにちは」という挨拶だ。

あるいは「すみません」という謝罪。
これも漢字だと「済みません」となる。「これだけのご迷惑をおかけして、このまま済ますわけにはいきません。かならず義理を果たします」という意味を込めた「このままでは済みません」が、いま「すみません」のひと言に省略されている。

そして「さようなら」という別れの挨拶。
これを漢字にすると「左様なら」になる。「左様であれば、このあたりで帰ることにします」の読点以下を省略した結果、「さようなら」が別れのことばになっている。


いずれも雑学としてはおもしろいものの、「今日は」「済みません」「左様なら」と表記するのはしっくりこないし、誤解を招く危険性のほうが高い。なぜなら、これらのことばは語源的な「意味」から離れ、もっと広く、感覚的なことばとして(また音やそのリズムとして)ぼくらのなかに内在化されているからだ。


どうすれば「意味」の束縛から自由になれるのか。

ひとつ漢字を「ひらく」たびに、ぼくはちいさな自由を手に入れたような、目の前の景色が開けたような、そんなよろこびを感じているのだと思う。

そのぶん感覚的で、気分によって表記統一がなされてなかったりするんですけどね。言語学の専門的でむずかしい話は知らないけれど、ぼくにとってのひらがなは「意味からの解放」なのです。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

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コメント5件

読みながら思わず「へぇー」を連発してしまいました(笑)
今まで意識してなかったけど、漢字と比べてひらがなの方がキモチを感じるなと思いました。
時ととき、人とひと、子供とこども、などなど「ひらく」とそれだけでだいぶ印象が変わりますよね。
子供の頃から、ひらがなの名前に憧れていたのですが、意味からの解放を望んでいたんだな、と整理されました。
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