がんばりすぎる人たちへ。

TLで流れてきた記事をきっかけに、がんばりすぎる人について考えた。

おそらくぼくは、がんばりすぎる側にいる人間だ。本をつくるときでも、それ以外の仕事でも、適度に肩の力を抜くということがあまりなく、どうしても「がんばり」が過ぎてしまう。天賦の才を持たない人間のひとりとして、そこに投じる時間や労力は多いほうがいいとは思うのだけど、「がんばり」が自己目的化してしまうのはちょっと違う気がする。

たとえば毎日 note を書いていると、力を入れて書いたものよりもむしろ、肩の力を抜きまくった雑談の延長みたいな話のほうが、たくさんの方々に読まれたりする。それはたぶん、肩の力を抜いたときほど「いつも考えているほんとうのこと」が出やすく、結果読みやすくておもしろいものになるからなのだろう。一方で肩の力を入れて書いたなにかは、まだ自分のなかで考えの軸が定まっておらず、どうしても説き伏せるような理屈っぽさが文面に出てしまうのだろう。

そういうこととは別に考えたいのは、「がんばり」の自己目的化だ。

過剰にがんばってしまう人は、往々にして成果物の善し悪しよりも「がんばり」そのものを認めてもらおうとする。こんなにがんばったのに、評価されない。こんなにがんばったのに、認めてもらえない。ぜんぜんがんばっていないアイツのほうが評価されてむかつく。そんな不満を蓄積していく。

がんばりすぎる人(うまく力を抜けない人)はどこか、おこないのすべてを誰かに採点されているようなプレッシャーを日々、感じているのかもしれない。それで肩に力を入れたまま仕事をこなし、結果「がんばり」が報われないと不満を感じているのかもしれない。


「がんばり」が報われないのは当たり前の話で、「がんばり」に意味がないという以前に、そんなにもじっとあなたの毎日を観察・評価してくれている人間なんて、どこにもいないのだ。あなたは誰からも監視されていないし、日々刻々の評価にさらされているわけではないのだ。

逆にいうとそれは、あなたの「がんばり」を採点している人もいないということで、その気づきはもう少しうまく力を抜く一助になるのかもしれない。


がんばりすぎる人びとよ、そしてわたしよ。

あなたの「がんばり」なんて、誰も監視していないんだぞ。そしてそれは、いいことなんだぞ。

壁に耳ありジョージとメアリー。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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いぇい!
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