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なんか、よかったんだよ。

拾ってもらったんだよなあ、と思う。

きっとそういう季節なのだろう。最近、ツイッターやフェイスブックで就活についての話題を目にする機会が増えてきた。前にも書いたことがあるけれど、ぼくはまじめな就活というものを——ついでにいえばまじめな大学受験というものも——ついぞ経験していない。きわめてふまじめで、いい加減で、自分に粗末な就職活動を経て、めがね屋さんに職を得た。おかげで、就活という制度について疑問をもったり憤りを感じたりする機会もないまま、就活関連のコンテンツを「ふうん」と眺める自分がいる。

そんなぼくでもまあ、なんとかいまの仕事に就けていたりするのは、人生のなかで何度か「拾ってもらった」ことがあるからだ。

そして、そのお礼というわけではないけれど、いつかぼくも当時の自分みたいな誰かを——拾うということばは不遜にしても——見つけて、場所と機会を与えて、あのころぼくに目をかけてくれた人たちにありがとうをしたいなあ、と思っている。というか、あのころ拾ってくれた人たちの年齢に、もう追いつきはじめている。


そして、ここで詰まる。

いったいどうやって、当時の自分みたいな人間を見つけるのだろう。逆にいうと、当時の自分はなぜ、あの人やこの人に拾ってもらえたのだろう。

たぶん、身も蓋もない答えは「なんか、よかったんだよ」なのだと思う。素質があったとか見込みがあったとか向上心があったとかという前に、「なんか、よかった」のだ。


なんか、いい。

なんか、やだ。

とくにキャリアや関係のはじまりにおいて、これはとんでもなく大切な要素なんだけれど、言語化しづらい生理の話でもあり、あまり重要視されていないというか、みんな自分の「なんか、○○」に無自覚なんじゃないかと思う。


いるんですよ、「なんか、いい」の人は。

そして「なんか、やだ」の人は。

ぼく自身、ある人にとっては「なんか、やだ」なのだろうしね。