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きのうのこと、10年前のこと。

きのう、『嫌われる勇気』増刷のお知らせが届いた。

この本に限らず、いまも定期的に版を重ねてくれている本が、何冊かある。増刷のお知らせが届いたとき、ぼくが最初に考えることはなにか。そりゃ、印税のことをまったく考えないと言ったら嘘になるけれど、いちばんに考えるのはそこじゃない。最初に思うのは「ああ、まだそれだけの人に出会えていなかったのだな」だ。そして「ここから、それだけの人たちと出会うチャンスが生まれたのだな」だ。

電子書籍には増刷の概念がない。増刷とは当然、紙の束が再び刷られ、製本されたのち、世に流れていくことだ。そして紙の本とはどうしようもないほどに「モノ」であり、たとえ古書店に流れていったとしても「ひとり一冊」がくり返される媒体だ。ひとつの記事(単一のURL)を大勢のひとが見る(共有する)ウェブとは、媒体としての性質がまったく異なる。

ぼくはこれまで100冊ほどの本をつくってきたけれど、電子化もされないまま絶版となった本は、当然ながらたくさんある。

たとえば、いま調べたところ10年前の2008年、ライターとしてぼくは12冊の本を書いている。すごいし、ひどい。この「月刊オレ」状態のアホな労働を6〜7年ほど続けたのち、ぼくは心身を壊して倒れた。

という話はともかく、2008年に書いた12冊のなかで、いまも版を重ねている本はゼロ。つまりはすべてが絶版で、文庫化された本が3冊、電子化された本は2冊だ。文庫も絶版となっているので、12冊のうち、いまでも読者と出会える可能性のある本は電子版の2冊しかない。古書店を除いては。ちなみに翌2009年から電子版が増えはじめ、2011年くらいに紙と電子の併売が一般的になる。


『嫌われる勇気』をつくるとき、共著者の岸見一郎さん、編集の柿内芳文さん、そしてぼくは「10年後の古典を」ということばを掲げていた。

クラウド上に購読可能なePubデータが置いてある、みたいな意味じゃなく、ほんとうに10年後もこの本が刷られ、モノとしての本が刷られ、ぴかぴかの本屋さんであたらしい読者と出会っていたなら、それはもう「古典」と言ってもいいんじゃないか。そんな本を、めざそうじゃないか——と。

絶版がなく、理屈のうえでは無限に増殖しうる電子書籍ってのは、ほんとうにありがたいものなんだけど、やっぱり1000部なら1000部の増刷によって「1000人の誰かたちと出会う可能性」が生まれるあの感覚は、格別にうれしいものなのだ。本が生きてる、って感じがする。

これからの時代、紙の本はますます「プレゼント化」していくんじゃないのかなあ。誰かさんへのプレゼントというよりも、いまよりもっともっと「自分へのプレゼント化」が進むような気がするし、そうなってほしいと思う。