学校よりも先に必要なもの。

会社とは別に、「学校」をつくるのはどうだろう?

月曜日からだらだら続けてきた「これから」の話、きのうはここで止まっていました。でも、学校のプランを説明する前に、そもそもなんでぼくが「次代のライター育成」なんて大それたことを考えているのか、そこに時間と労力を投じようとしているのか、お話ししておく必要がありそうです。

なぜ「ライターの育成」なのか?

長年ビジネス雑誌やビジネス書のライターをやっていたぼくは、経営者の方々に取材させていただく機会に恵まれていました。そしてある時期、かならずと言っていいほど投げかけていた質問があります。それは「上司がほしい、と思ったことはありませんか?」というもの。24歳からフリーランスでやってきて、上司もいなければ師匠もいない環境で育ったぼくにとって、これはけっこう切実な問いだったんですね。社長さんたちのなかには「いやぁ、上司がいてくれたらどんなに楽かと思うことはありますよ、それは」と身を乗り出して語ってくださる方も多く、ほんとうの「ひとり」を経験した方は少なからず直面する課題なのだろうと思っています。

つまり、大前提としてぼくには、自分は「師」と呼べる人がいなかったし、そう呼べるだけの人に出会うだけの力を持ちえなかった、という自戒があるのです。同時に、たとえばいまフリーランスとして働きながらも、そういう出会いや機会を求めている人は多いだろうなあ、とも思っています。

もうひとつはやっぱり、「なにを残すか」なのだと思います。たとえば今後の人生で、ぼくが最高におもしろいと思える本をあと10冊書けたとしても、もうそれほどわくわくしないというか、自分のなかでは「まあ書くよね」な話でもあるんですよね。それよりも、「こいつはおれよりぜんぜんすごい」と思える若い人たちがそれぞれたくさんの本をつくってくれたほうが、ぼくもびっくりできるし、ずっとうれしいんです。

まあ、ほんとうはここに「いいライターが少ない」という大問題が横たわっているのですが、それを書きはじめると小言のような話にしかならないので、ここでは書きません。

いまの「学校」に足りないもの

そんなわけで学校。きのうも書いたように、ぼくはこれまでたくさんの学校的な場にお呼ばれし、講師として授業を受け持ってきました。それでもぼくが、自分で自分の学校をつくってみたいと思うようになったのには、当然理由があります。不満と言ってもいいかもしれません。

まず、私塾的な場を除いていうと、おおきなスクールでは「豪華講師陣」を集めるところから場の設計がはじまります。そして各講師陣のスケジュールを調整したのち、カリキュラムというか、時間割みたいなものを組み、受講生を募集します。この「人ありき」な場の設計によって、カリキュラムがぐちゃぐちゃになる、という事例をたくさん見てきました。運営サイドとして、誰に、なにを、どのようなステップで学んでほしいのか、なにひとつ理解できない事例ばかりなのです。

スクールをひとつのコンテンツだと考えた場合、そこにはかならず「編集」が必要です。しかし、編集がまるでなされていない、編集者不在のスクールが大半だというのが、ぼくの率直な感想です。構造も定まっていなければ、文脈もない。展開もなければ、結論もない。結果、読者(受講生)は各講師の「つまみ食い」だけで腹を膨らませて、なにを得たのかよくわからないままに卒業を迎える。

もしも自分にスクールの全コマを任せてくれたなら、もっとわかりやすくておもしろく理解の階段をのぼっていけるような、万全のカリキュラム(構成)を組んだうえで、つまりしっかり編集のなされた学びの場を提供するのになあ。そんなむずむずが、ずっと渦巻いていました。

で、気づいたのです。

いまのスクールに足りないものはなにか。ぼくがやろうとしている学校に足りない要素はなにか。ぼくが二の足を踏んでいた理由は、どこにあるのか。


それは「プロダクトとしての教科書」なんですね。


精密に設計された、構造と文脈と展開と結論をもった「教科書」がないから、世にあるスクールもコンテンツになりえていないのだ。つまみ食いと人脈づくりの場にしかなりえていないのだ。

というわけで、結論。



ぼくは、将来に学校をつくるため、まずは「プロダクトとしての教科書」をつくります。


コンセプトは、「もしもぼくが文章の学校をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」です。



最初にプロダクトとしての教科書をつくり、それを本というかたちで出版し、その教科書を旗印に「学校」を立ち上げる。このかたちであれば、学校という場の編集もスムーズになるし、学校の品質も担保できるし、なによりもぼく自身が編集方針に迷わずにすみます。教科書を書き上げた時点で、迷いはすべて解消されているはずなので。

もちろん、教科書をつくった段階で「欲」が満たされ、学校にまで発展しない可能性もゼロではないでしょう。それでも自分の学校(コミュニティサービス型コンテンツ)よりも先に、そこでつかう教科書(プロダクト型コンテンツ)をつくる。見切り発車した学校でのあれこれを本にまとめていくのではなく、最初に思いっきり労力を費やして「教科書」をつくり、それを学校という場で実践していく。これは、自分にとっては大発明といってもいい設計図です。

ぼくの「これから」について

それではなぜ、わざわざこのような場で構想を公表したのか。

ひとつに、ぼくはこの教科書を、編集者を入れずに書こうと思っています。そもそもの目的が「自分の学校でつかう、自分のための教科書」ですから、あえて第三者を入れず、自分の主観だけでつくってみたいのです。そして書き上げたのち、出版社さん・編集者さんに持ち込むのか、手を挙げてくださった方と仕上げるのか、なんならオークション的な仕掛けをつくるのか、自分のあたらしい書き方・つくり方を模索します。それをお知らせするため、これを書きました。

また、ここはほんとうにおおきな決断なのですが、この教科書と学校づくりを契機に、ぼくはビジネス書のライターを辞めようと思っています(ビジネス書の定義はともかくとして)。

今後出す本は、自著と共著のみとし、それ以外の「構成」や「編集協力」というかたちでのお仕事は原則ゼロにしていきます。

自分が責任の取れることばで、自分が責任の取れる内容の、自分がほんとうに世に出したいと願う本だけを、つくっていきます。もちろん、編集者さんとの二人三脚は変わらないのですが、「請け仕事」ではないかたちでの仕事に注力していきます。これはライターという仕事がイヤになったからではなく、近年「他者のことばを預かること」への責任の重さを痛感する機会が増え、このあたりで主語を自分に切り替えてみようと思い立ったからでした。ちゃんと最後まで責任をとるために。

最後に

いまのぼくは、「プロダクトとしての教科書」づくりに、わくわくしまくっています。お尻を叩いてくれる編集者もいないのでここに書きますが、今月から6月までのあいだに資料を読み込み、構成を練り、構造を考えて、7月から年末までのあいだで書き上げ、年明けのどこかで刊行できればと思います。なので学校をはじめるのは、どんなに早くても1年後の夏くらいでしょう。

文章本としての前著『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は、おかげさまで現在も版を重ね、15刷・累計38,000部にまで達しています。なんの知名度もなかった雑草ライターのデビュー作としては上出来な数字ですし、いまでもぼくの好きな本で、大事なことがたくさん書かれた本だと自負しています。

でも、次の「教科書」はもっと充実した内容になるはずだし、それを書くだろう自分が、いまからたのしみです。苦しいこともたくさんあると思いますが。


以上、3日間にわたってお話ししてきた「この数年ぼくが思ってきたこと」と「いまぼくが考えていること、決めたこと」でした。ほんとうはコミュニティまわりのお話、もうちょっとぼくの考えを書いてみたかったんだけど、それはまた別の機会に譲りますね。

この決断と結論、応援していただけるとうれしいです。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
6つのマガジンに含まれています

コメント9件

はじめまして、おはようございます。とても楽しみです★
僕も子供たちのために「STEAM教育の教科書みたいなもの」を自分で書こうとしています。古賀さんのnoteに背中を押していただけた気がします。
楽しみにしています!
はじめまして。文章を書くのが好きで最近noteを始めました。書き方を習ったことはないので、教科書とても楽しみにしております!
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