そのときカメラをどちらに向けるか。

境界線、というものについて考えることがある。

たとえば、うーん。もしも不謹慎なたとえだったら、ごめんなさい。商店街で火災が発生したとする。あれよあれよというあいだに炎は燃え広がり、消防車がやってきて消火にあたる。数時間後、なんとか無事に鎮火したものの、仮に3棟が全焼だったとする。

さて、このときだ。

カメラを「全焼した3棟」に向けてナレーションをつけると、それは恐怖と悲劇の物語になる。しかし一方、カメラを「ぎりぎり火の及ばなかった隣家」に向けてナレーションをつけると、そこにはまったく別の物語が生まれる。カメラの位置は変わらない。右を向くか、左を向くか、それだけの違いだ。


このようにぼくらは、世界を切りとりながら生きている。

写真を撮ろうとしたとき、その画角の狭さに閉口することは多いだろう。けれどもそれと同じくらい、ぼくらは世界を狭く小さく切りとって、世のなかってやつを眺めている。「世界はこんなに暗くて怖いところなんだ」となげく人もいれば、「世界はほんとに美しくてまぶしい」とスキップする人もいる。しかも彼らは別世界の住人というわけではなく、カメラを向ける方角が違っているだけだったりする。


それでぼくは、できることなら「あかるいほう」にカメラを向けて生きていたいなあ、と願っている。都合の悪いものに蓋をするような真似はしないけど、仮に「明」と「暗」のどちらを向いてもいいという状況であれば、あかるいほうにカメラを向けていたい。


そこで思い出されるのが、いろんなところで引用される、『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一節だ。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

アンナ・カレーニナ』(トルストイ著/望月哲男訳)


じつはぼくらは、悲劇や不幸を情感たっぷりに語ることばはたくさん持っていながら、「あかるいこと」についての語彙はとてつもなく貧困だったりする。おかげでテレビや本、インターネットにあふれる「いい話」は、判で押したように単調で、多様性や奥行きのない、「よくできた話」になってしまう。


たとえばきょう、ぼくは朝から晩まで原稿を書いていた。電話やメールもあったけど、きっと3日もたてば「このまえの水曜って、なにしてたんだっけ?」と思い出せなくなるほどなんにもない、仕事しかしてない、机の前から一歩も動かないような1日だった。

逆に言えば、暗いことも、悲しいことも、起こらなかった平穏な1日だ。

もしかするとそれは、「あかるい日」なのかもしれない。

出る釘は浮かれる。
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古賀史健

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