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おなかが痛い日の記録。

この数年、「腹落ちした」ということばを耳にする機会が増えてきた。

腑に落ちた、とは少しニュアンスが違う。あたまでっかちに理解するのではなく、こころの底(腹の底)から納得できた、これ以上ないほどクリアな理解が得られた、といったときに使われていることばだ。すとんと落ちるさまを表現した視覚的イメージを伴ったことばとも言えるし、身体性を伴った理解のことだとすることもできるし、「腹=身体」を「あたま」の上位概念として扱ったことばと考えることもできるだろう。

ちなみにぼくはこれまで、仕事の原稿はもちろんのこと、日常会話のなかでも一度として「腹落ち」の語を使ったことがない。あたらしいことばを前にしたときには、できるだけ用心深くその周囲をうろつき、棒で突いたり小石を投げてみたりしながら、自分なりに得心のいくまで対象の正体を見極め、それだったら自分を使ってみようかな、と思えるところにいってようやく、その語を口にするようにしている。

しかし今朝、生まれてはじめて「腹落ち」を使ってみたくなった。



猛烈な腹痛に襲われたのである。


人間ならば誰だって、おなかが痛くなることはある。あたまが痛くなることだってあるだろう。頭痛と腹痛は対等な関係であり、どちらが上位にくるというものではない。

けれども腹痛には、次の段階がある。「おなかが痛い」はやがて、「おなかが壊れた」に発展するのだ、大抵の場合。早朝からトイレに駆け込んだぼくは、盛大におなかを壊した。消化吸収のダムが、決壊した。

ねむみと痛みと不快感、そして底知れぬ不安と闘うこと10分あまり。さすがにもう大丈夫だろうとトイレを出たぼくは、しくしく痛むおなかをさすりながらベッドに戻った。おなかも痛いし、尻も痛い。しかも眠くてたまらない。どうにか安眠の海に潜ってこの喧騒から逃れよう。あと3時間くらいしか眠れないけれど、深い深い快眠の海の底で体力を回復させよう。そうやって毛布を抱えて海老のごとくに丸くなった次の瞬間、それはやってきた。


猛烈な空腹である。


なんて面倒くさい野郎だ、おなかってやつは。ぼくはおどろき、あきれ、さじを投げた。あたまは、せいぜい痛くなるだけだ。ずきずきしたり、きりきりしたり、痛みのさまにバリエーションがあるだけだ。けれどもおなかは、痛くもなるし、壊れもする。どころか、日に何度も空きやがる。場合によっては、それらぜんぶがいっぺんに襲ってくることだって、ある。


「あたまが壊れた」は自覚も経験もしたくないけれど、「あたまが空いた」は自覚できたほうがいいのかもなあ。空腹ならぬ空頭。

……って、いまのおれじゃん! 本も映画もぜんぜん食べてないじゃん!


なんか、腹落ちした。