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もしもお前が1000年生きるなら。

犬の話をしよう。

犬を迎え入れた日からうっすらと、お別れのときのことを考えている。実家にいた先代犬(正しくは先々代犬)のことを思い出したり、犬とお別れした先輩たちのお話に耳を傾けながら、いつかくるその日のことを考えている。

むずかしいとは知りつつも、やはり「10年、20年といわず、30年でも40年でも長生きしてくれたらな」と思ってしまう。そして冗談のように「いっそのこと、1000年くらい生きてくれたらな」と思った瞬間、気がついた。

もしもうちの犬が1000年生きるのだとしたら、ぼくはどこかでこいつを野に放つだろう。

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自分ひとりでも生きていけるように、ぼくがいなくなっても生きていけるように、そういう場所で、そういう訓練をして、人里離れた大自然のなか、「さあお前の人生をたのしんでこい」と、野に放つだろう。ひとりじゃさみしいだろうし、パートナーも探してあげたほうがいいかな。それはおせっかいなのかな。自分で見つけるのかな。なんてことを考えながら。

そして気づく。

これって、まったく子育てそのものじゃん、と。


いままで何度となく子育てと犬猫育ての違いについて考えてきたけれど、ようやくひとつ、わかった気がする。

「自分が先にいなくなるだろうこと」を前提におこなわれる子育ては、おのずと「自立」が最終目標になっていく。自立してもらわないと困るし、元気に巣立っていく後ろ姿が、しあわせなのだ。

比べて、「この子が先にいなくなるだろうこと」を前提にした犬猫育ては、自立をあまり考えない。むしろ「最後まで世話をする責任と覚悟」が大事になってくる。ずっとずっといつまでも見守ることを約束するから、安心しておおきくなってね、と。

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うちの犬は、いま3歳。

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やっぱりあと何十年でも、一緒に暮らしていたいよなあ。