ものをつくるときに大切なこと。

中学生のころ、映画監督になりたいと思った。

当時、僕の住んでいる田舎にもぽつぽつとレンタルビデオ店が誕生し、週末は友だちと100円や200円ずつ出し合って何本ものビデオを借り、誰かの家で上映会を開いていた。中学生男子らしく、恋愛映画を借りることは皆無で、たいていはアクション映画かSF映画、それからホラー映画を観ていた。

いちばん想像力をかき立てられるのは、スプラッタ系のホラー映画だった。

そもそも火葬を原則とする日本において、ゾンビ映画は成立しづらい。墓場の土がもこもこ盛り上がり、うなり声とともに腐敗しきった死体が這い上がってくる、というシチュエーションは中学生にも無理があった。アメリカはゾンビがいていいなあ、日本のおばけは半透明な影みたいなやつばっかりでつまらんなあ、と不満だった。

そこから「自分だったらこういうゾンビ映画を撮る」という具体的なプランが浮かび上がってきた。

ゾンビをゾンビたらしめるものは、腐敗だ。ゾンビになるべき死者が、火葬場に持っていかれる前に、なんとか脱走させないといけない。そして腐敗を進めないといけない。しかも、なるべくグロテスクなかたちで。


ぼくが考えたのは伝染病だった。原因不明の伝染病が大流行し、人々が倒れていく。その伝染病に罹患した人々は、生きたままに四肢が断裂する。首が、手が、足が、それぞれ勝手に動き出す。血の通わない四肢は動きながら腐敗をはじめ、病原菌をまき散らしながら人々を襲っていく。

ストーリーよりも先に、ビジュアルが浮かんだ。そして映画を撮る手段も持たず、小説や漫画にする根気もなかったぼくは、ひたすらその映画のポスターを描いた。画用紙に、水彩絵の具で、グロテスクなゾンビたちを描き、映画のタイトルをつけ、キャッチコピーまでつけたポスターを描いていった。しかもそれを教室の掲示板に貼っていたりした。


あのとき衝動的にやってしまった「映画をつくれないから、ポスターを描く」という表現のありかたは、たくさんのヒントを含んでいる気がする。

たとえば本をつくるときにも、「広告やポスターから先に考える」があってもいいんじゃないか。せめて帯文くらいは浮かんでないと、どこをめざせばいいのかわからないんじゃないか。

いまつくってる本も、タイトルや帯文はもちろんのこと、なんとなーく広告やポスターの姿は見えていますよ。


郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

コメント1件

「帯文」が広告で言うコンセプトワードの役割になるのかもしれないですね。
たとえ短くても、これが結構、全体を支配します。「どこをめざせばいいのか」が分かるのだと思います。
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