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釈然としない冬のはなし

やっぱり今日みたいな日には、「めっきり寒くなってきました」なんて挨拶から入るべきなのか。それともあえて寒さには触れず、別の話題を持ってくるのが腕の見せどころ、というものなのか。

よのなかにはいくつかの、ふしぎな日本語がある。

たとえば「めっきり寒くなってきました」の「めっきり」だ。急激なる変化や思わぬ変化を意味するこのことば。けれどもなぜか「めっきり暑くなりましたなあ」みたいな使い方はしない。「めっきり」の次にくる季節の変化は、かならず「寒くなる」なのだ。

あるいはまた、「めっきり老け込んでしまった」とか「めっきり弱くなった」などの変化にも使われる。要するに「めっきり」のあとに続くのは、なにかが減じる類いの変化であり、つまりぼくらは「寒くなること」を「減じること」だと認識しているのだろう。

似たようなことばでいうと、「釈然としない」が挙げられる。

この釈然、ほとんど「しないこと」が前提のことばになっている。「いやー、あなたの話を聞いて、ちょー釈然としましたよ!」と言われても、どこか釈然としない思いが残るだろう。

大野晋さんや井上ひさしさんであれば、ここから語源や用例をめぐるおもしろい話のひとつやふたつを披露してくださるのだろうけど、ぼくはしない。ただ「おもしれえなあ」「ふしぎだなあ」と思うだけだ。

釈然とは、しないことに意味があるのだ。