こころのヅラについて
去年のクリスマスに、糸井重里さんが書かれていた「ばかがばれること」と「ばれてからが、ぼくをつくってきた」という話をきっかけに思い出した話です。
Twitter や Facebook に代表されるソーシャルなネットワーキングサービスの誕生以降、ぼくらの生き方、身の処し方はいろんなところで変化を要求されています。そして SNS 時代のあるべき行動指針を、誰よりも早く予見し、実行したひとといえば、誰あろう綾小路きみまろさんじゃないのか、と思うんですね。
もう10年以上も前、つまり Twitter や Facebook の誕生以前、きみまろさんは突然ご自身のカツラ着用をカミングアウトしました。なんてラディカルなおじさんなんだ、と腰を抜かしたことを昨日のことのように覚えています。
ハゲを隠すためにヅラをかぶっていることを隠さず今後もハゲを隠すためにヅラをかぶり続ける。という、もはやなにを隠してなにを隠してないんだか瞬時には理解しかねる入れ子構造。
やっぱり、隠しごとを抱えて生きるって、つらいんですよ。ヅラの例でいうと、ハゲを隠すつもりでヅラをかぶった瞬間から、今度はヅラがばれないよう怯えながら過ごす人生がはじまる、というパラドックスが待っているんですから。
ただ、SNS 隆盛の時代になって、もはやヅラ的なうそや虚飾が通用しなくなってると思うんですね。毎日ことばを発し、写真やリツイートやいいね!なんかで「わたし」を表明してたら、そりゃあね。ああ、このひとカッコつけてんなー、こう見られたいんだなあー、たまってんなー、逃げてんなー、みたいな「こころのヅラ」もぜーんぶお見通しですって。もちろんぼくのかぶってるヅラもふくめて。
ひとが誰にもいえない「こころのハゲ」に悩み、無意識のうちに「こころのヅラ」を必要とすることは、この先ずっと変わらないでしょう。でも、きみまろさんの「ハゲた自分は見せないけど、ヅラであることは明かしていく」という態度は、これからの時代を生きるぼくたちに大きな指針を与えてくれている気がするのです。
ブログをふくめた SNS をちゃんと使っていくこと、そして定期的にそれを読み返していくことは、自分がどんな「こころのハゲ」を抱え、どんな「こころのヅラ」をかぶろうとしてるのか、要は自分はどんな人間なのかを知る、いちばん確実な手がかりになるのではないでしょうか。
昨日のランチは、みそラーメンでした。