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本屋大賞によせて。

きのう、「2019年本屋大賞」受賞作が発表された。

大賞を受賞したのは、瀬尾まいこさんの家族小説『そして、バトンは渡された』。去年に読んだなかで、いちばん気持ちのいい小説だったので、なんだかうれしくなってしまった。あれは何月号だっけ。昨年、この小説の書評を書いた「小説現代」を引っぱり出す。読み返して、OMG。暗澹たる気持ちに襲われる。やっぱり書評は、短い文量でなにを評するのは、おれは苦手なんだなあ、とがっかりする。

ええい、せっかくの機会だ。昨年書いた書評に手を加えて、もうちょっとマシな読みものにしてみよう。……と思い立って書いてみたのが、以下の文章である。タイトルは誌面掲載時のままだ。


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『そして、バトンは渡された』 瀬尾まいこ


家族小説の名手が描く、あたらしい愛の物語


 フィクションに長く触れていると、感情移入することを臆病に感じる自分がいる。自分が好きになったキャラクターにかぎって、不幸が襲いかかるのだ。凶悪犯罪に巻き込まれたり、事故に遭ったり、場合によっては殺されてしまったり。善良を絵に描いたような隣人が実は凶悪犯だった、というのもよくある話だ。光と影、善と悪。そのギャップが大きいほど読者のこころは揺さぶられ、物語から逃れられなくなる。

 そんなからくりを知った読者は、いつしか物語中の善人を疑いはじめる。彼・彼女の身になにかが起きるに違いない、どこかで裏切られるに違いない、なぜならそれが良質なフィクションの条件なのだから、と。

 瀬尾まいこの新刊『そして、バトンは渡された』は、そうした「裏切りの予感」がことごとく裏切られていく家族小説だ。

 ここには陰惨な事件もなければ、どんでん返しもなく、主人公を不幸に突き落とす悪人も登場しない。いや、不幸そのものが登場しない。たとえば、主人公の森宮優子。彼女は、三人の父親と二人の母親を持つ女子高生だ。親の死別や離婚・再婚によって、七回も家族のかたちを変えてきた、十七歳の女の子だ。出生時の名前は水戸優子。その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て現在、三十七歳の継父「森宮さん」と二人暮らしをしている。

 しかし彼女は、自分の生い立ちを不幸だと思わず、むしろ周囲が期待するような苦しみや悲しみを告白できない(そうする要素を持たない)のんきな自分を、申し訳ないとさえ思っている。

 なぜ、彼女は不幸と縁遠いのか? おそらく、もっともわかりやすい答えは「すべての親に愛されて育ったから」だろう。血のつながっていないはずの継父・継母たちは、それぞれのやり方と距離感で、優子に無償の愛を捧げる。そして優子は、たとえそれがピント外れな(始業式の朝から験担ぎとしてかつ丼を用意されるような)好意であっても、拒絶しない。せっかく作ってくれたのだから、と箸をつける。そして重たいはずの朝のかつ丼にも、何日も続けて出される餃子にも、ちゃんとおいしさを見つける。差し出された不格好な愛情を、きれいに、おいしく平らげる。

 くり返される食のエピソードを通じて、読者は知るだろう。彼女はやさしい大人たちに愛されただけではない。むしろ彼女は、「食べる」という行為を通じて、不器用に生きる大人たちに「与える喜び」「愛する喜び」を与え続けてきたのだ。

 物語の終盤、大人になった優子は結婚を決意し、五人の親たちを訪ねて歩く。家族とはなにか。それはどんな人で、どんな場所のことなのか。結末のまぶしい光に、ぜひ包まれてほしい。