断り書きにあふれたことばのなかで。

ぼくはまだ、今年の大河ドラマをみていない。

例年みているのかと言われれば決してそうではなく、けれども毎年「みればおもしろいんだろうけどなあ」と横目に眺める、それがぼくにとっての近年の大河ドラマだ。そして仮に、あさっての日曜日から大河ドラマをみはじめたとする。おもしろかったとする。ここ(note)に、あるいはツイッターやフェイスブックに、なにか感想を書きたくなったとする。おそらくぼくは「いまさらながら『西郷どん』をみた」とか「遅ればせながらみた『西郷どん』だけど」とか、そんな断り書きを入れつつ、感想を述べはじめる。

さて。ここでの「断り書き」は、ほんとうに必要なのだろうか。

断り書きを入れる理由はひとつ。ツッコミが面倒くさいからである。「いまさらかよ!」とか「もう知ってるよ!」とか「知らなかったのかよ!」とか、あるいは「知ったこっちゃねえよ!」とか、そういう類いの軽いツッコミ。さらには「そうじゃない例もある」とか「それで傷つく人もいる」とかの、配慮の不足を指摘するツッコミ。なんとなく炎上につながりそうな要素。

それらを避けるため、いろんな断り書きを交えつつぼくは、ささやかな「ぼくはこう思った」を述べていく。そしてときどき、ふと「この断り書きって、ほんとにいるのかな?」と思うのだ。


書くのが面倒くさいからではない。無意識のうちに「断り書き」を入れてしまっている自分が、ちょっとこわいのだ。


ここもちょっと補足が必要なんだけれど、別に「断り書きなしではなにも言えないようなネット空間。これはいかがなものか」と世間を憂いているのではない。自分でも気づかないうちに「断り書き」を入れ、それを入れないことには文を組み立てられない(主張や結論にたどりつけない)ようになっている自分の文体に、言い知れない危機を抱くのだ。「これ」がデフォルトになってしまったら、きっと書き手としての球威が衰えていくよなあ、と。

おそらくいま、ここまで書いた文章を丹念に読み返していけば、自分でも気づかないうちに入れた「断り書き」が、たくさん見つかるだろう。それはこの文章に、ほんとうに必要なものだろうか。「ぼくはこう思った」を、伝わりにくくしていないだろうか。

かといって「炎上上等」みたいにかまえて、思慮浅い文章をバンバン書いていくというのもぼくにはできないし、なんというか「ウェブ上になにかを書く」ということについて、そこで自分がとっている構えについて、もっと自覚的でないと本業のフォームも崩れていきかねないなあ、と思うのだ。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

ライター。バトンズ代表。著書「嫌われる勇気」「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」「20歳の自分に受けさせたい文章講義」など。週日更新しています。http://www.batons.jp

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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