無知の知と、もうひとつの知について。

『嫌われる勇気』をつくるとき、プラトンの著作を何冊も読んだ。

いちばんとっつきやすく、単純におもしろかったのはやはり、『ソクラテスの弁明』だった。有名な「無知の知」という概念が語られる一冊だ。本を読み返すことなく記憶のままに書くと、「お前よりも賢い者はいない」という神託を受けたソクラテスは、そんなはずはないだろう、とアテナイの知者・賢者たちのもとを訪ね歩く。自分よりも賢いと思われる知者たちと、たくさんの問答をくり返す。結果、ソクラテスは神託の正しさを理解する。知者・賢者とされる人々はみな、おのれの無知を知らず、おのれのことを知者・賢者だと思い込んでいる。一方、わたし(ソクラテス)は、己が無知であることを知っている。その「おのれが無知であることを知っている」という点において、わたしは彼らよりも賢いといえるのだろう。あの神託は、わたしの「無知の知」を語ったものだったのだろう。そんなエピソードだ。

学問というほど大仰なものでなくとも、なにかを本気で学んでいこうとしたときには大抵、おのれの無知を痛感する。世界の広さに立ちつくし、その深淵を覗き込んでは恐れおののく。「無知の知」って、こわいけれども避けては通れない道だよなあ、と思う。

それと似ているようだけれどもぜんぜん違う、もしかしたら自分にはこれが必要なのかもなあ、という「知」のありかたを考えるようになった。


「無視の知」だ。


毎日わんさか流れてくる情報。たとえば最新のビジネス用語、最先端のテクノロジー。いま流行っている人、うわさ話に罵詈雑言。性格の問題なのか仕事柄なのか、以前はいちいちぜんぶをキャッチしようとしていたけれど、さすがに最近、情報の千本ノック状態に疲れ果ててきた。

しかも実際、ぼくが「なんか必要なのかもしれない」「なんか役に立つのかもしれない」「知らないままでは大事な流れに乗り遅れるのかもしれない」とキャッチや理解や知ったかぶりを努めようとしていた情報の大半は、じつは知らないままでもなんら問題ないことばっかりなのだ。知らなきゃいけない状況がやってきたら、そこから勉強すればいいだけの話なのだ、ほとんどの流行は。そんなことどもにこれほど、ぼくは時間と労力を割き、自分をすり減らしている。


きっといま、ぼくにいちばん求められているのは「ほんとは知らなくてもいいノイズ」はなんなのかを見極める目、「無視してもいいもの」を見極める目、すなわち「無視の知」なのだ。

見たくないものまで義務感のように見まくり続ける人生を送ってると、自分がなにを見たいのかもわからなくなるし、見えなくなるんじゃないかな。最近、ちょっとインターネットやSNSとの距離の置きかたを考えなおそうかと思っている。


椅子の上にも3円。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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