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あしたマウスピースを受けとるぼくは。

明日、歯医者にマウスピースを受けとりに行く。

先日定期検診を受けたところ、どうやらぼくは寝ているあいだ、歯を食いしばる癖があるらしい。それで歯が、少しすり減っているらしい。これから就寝時には、マウスピースをつけたほうがいいらしい。ほんとに毎日つけるようになるものか、けっこうあやしいのだけど明日、マウスピースを受けとりに行く。

マウスピースといって思い出すのが、アントニオ猪木さんだ。


(以下、昭和のプロレス話。用語の説明は省きます)


あれは第一次だったのか、新生のときだったのか、ともかく前田日明さんがUWFで活躍していたときのこと。雑誌のインタビューで彼は、マウスピースの重要性について熱く語っていた。自分は今後、試合中にマウスピースをつけるようにする。UWFには打撃技が多く、口の中を怪我しないためという理由も当然あるのだが、マウスピースをつけて噛み合わせをよくすると、力の入り方が違うのだ。同じハイキックにしても、その威力がぜんぜん違ってくるのだ。前田さんは、そんなことを言っていた。

へええ、そんなこともあるのかあ。納得し、感心しながらぼくは、「でも、プロレスラーがみんなマウスピースをつけるようになったら、嫌だなあ」と思った。たとえば、アントニオ猪木がマウスピースをつけたら、魅力が半減しちゃうなあ、と。


当時、プロレスを演劇のようなショーだと思っていたわけではないけれど、アントニオ猪木というプロレスラーの魅力はやっぱり「顔」だと思っていた。それも、歯を食いしばって相手を締め上げる、あの顔だと思っていた。

マウスピースをつけたら、この顔ができない。この顔を、食いしばる歯を、見ることがかなわない。それはぜったいに、嫌だ。



大人になってさまざまな文献を読んでいくと、ジャイアント馬場さんにとってのプロレスとは、「大会場の三階席にいるお客さんまで満足させるもの」だったのだと理解できる。だからおおきく腕を振りかぶり、相手の脳天めがけてチョップ(脳天唐竹割り)する。おおきな足を振り上げ、相手の顔面に蹴り(十六文キック)を入れる。

一方、アントニオ猪木という人にとってのプロレスは、そのお客さんは、常にブラウン管の向こうにいた。だから身体の動きよりもむしろ、その表情でお客さんと闘っていた。ちょっとした目線が、食いしばる歯が、なによりも大切だった。クローズアップこそが、彼の主戦場だった。

そしてUWFの人たちにとっての武器は、「情報」だった。アキレス腱固めみたいな地味な(また効果もよくわからない)技は、そこに付加された膨大な情報によって神格化されていった。マウスピースひとつにしても、それは俺たちは真剣勝負なんだという「情報」だった。大会場での試合がなく、テレビ中継もなかった彼らとしては、当然の選択だろう。


……なんてことを、明日歯医者でマウスピースを装着しながらぼくは、思い出すのだろう。困ったものである。