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ライク・ア・ローリング・ストーン。

濁点をつけるべきなのか、つけないべきなのか。

腹が痛い。さきほど昼食としてラーメンを食べたら、また腹が痛くなってきた。きのうに続いて再び、腹が痛くなってきた。しかし、もしかしたらこれ、きのうからずっと続いている腹痛かもしれず、その場合は「まだ腹が痛い」ということになる。

ときおりツイッター上で「ああー、酔っぱらったぁー」などとつぶやいている人があるが、そしてたまにぼくもそのモードに突入するのだが、頭痛、腹痛、酩酊などの症状に襲われたとき、人はそれ以外のことを考えたり口にしたりするのがむずかしくなるのだろう。あるいは「痛い」とか「酔った」とかを言葉にすることによって、その症状から脱しようと試みるのだろう。知らんけど。


書くことが浮かばないので、箇条書きのトピックで最近の話をする。


(1)万年筆が飽きない。
急に思い立って、ひと月ほど前に大量購入した万年筆。自分のことだからきっとすぐに飽きるのだろうと思っていたのに、まったく飽きることなく使い続けている。3色ボールペンの便利さが持つ誘惑にぐらぐら揺れながらも、たぶん来年以降もずっと万年筆だろう。

(2)バッグとスニーカーに飽きる。
これは最近のトピックというわけではなく、もう何十年と抱える宿痾なのだけど、どんなに「いいな!」と思って購入したものであっても、なぜかバッグとスニーカーだけはすぐに飽きてしまう。あたらしいのがほしくなる。なんならきょう、これからだって買いに行きたいくらいだ。

(3)書いてて思った。
もしかすると「飽きる」って、出がらしのお茶っ葉みたいに味わい尽くした結果の飽き飽きじゃなくって、単に「目移り」した結果の、後付けの言葉なのかもしれない。飽きないってことは、目移りしてないということで、それだけ余所のものを観察していないこと、観察をさぼってるということなのかもしれない。

(4)すると結論は。
飽きっぽさとは好奇心の裏返しであり、飽きっぽい人とは「いつだって目玉をギョロギョロ動かしている人」と考えることもできる。でもまあ、たとえばぼくが飽きもせずドストエフスキーが好きなのは、たぶん彼や彼の作品をずっとギョロギョロ観察し、そのたびにあたらしい発見をできているからなんだろうなあ。


と、なんでもいいから書いてみると、話は転がり、考えも転がり、ライク・ア・ローリング・ストーンですね(違う)。