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隣で過ごした、ぜいたくな5日間。

「ええい、ままよ!」

あれは『三国志』だったのか『はだしのゲン』だったのか、あるいは違うマンガだったのか忘れてしまったけれど、小学校の図書室で読んだマンガに、そんなセリフがあった。たぶん屈強な男が、武器や拳を振り上げて叫ぶセリフだ。「まま」を幼児舶来語の「ママ」と読み、終助詞の「よ」を女性語の「よ」と読んだぼくは、大笑いしながら何度も何度もそのセリフを声に出した。「ええい、ままよ!」。意味のわかったいまでもときどき、思い出すことばである。

そしてきょう、これから「ええい、ままよ!」の勢いをもって書いておきたいことがある。照れくさいし、ご本人もそういうものを望んでいないだろうし、遠慮しておくべき理由はいくらでもあるのだけれど、そこは「ええい、ままよ!」。株式会社ほぼ日の、永田泰大さんについて書きたい。

年長の、古い友だちのような関係になってしまったいまとなっては言いにくいことだけれど、ぼくはずっとずっと前から永田さんのファンだった。「尊敬するライターは?」の質問にはいつも永田さんのお名前を挙げていたし、10年ほど前だろうか、骨董通りのパスタ屋で原稿を書いている永田さんを偶然お見かけしたときにはサインをもらいに行こうか、相当逡巡した(結局、永田さんは間違いなくそういうのが苦手な人だ、という判断のもとサインをあきらめた)。

通常、こういう一方的なファンというものは、勝手な幻想を勝手に膨らませてしまうものだ。遠くから眺めるお月さまはきれいであっても、いざ近づけばでこぼこだらけの石の星だったりする。それがいやで、きれいなお月さまでいてほしくて距離をおいたままの「好きな人」は、ぼくにも何人かいる。


「生活のたのしみ展」の控え室、ぼくは永田さんの隣に座って原稿を書いていた。ぼくらとくだらないおしゃべりをしたり、乗組員の方々からの相談・質問に答えたり、それからもちろん黙々と原稿を書いたり、永田さんのお仕事をずっと隣で感じていた。

お時間のある方には、永田さんが担当された「テキスト中継」を最初からぜんぶ読んでほしい。ひとつとして、おもしろくない投稿が見当たらないはずだ。そして永田さんが毎晩遅くに(ときに明け方に)書かれた note も、ぜひ読んでほしい。なんなら、これだけでもいいから読んでほしい。

永田さんの文章は、とにかくおもしろい。選び抜かれたことば、絶妙なメタファー、うねるようなリズムと強弱、その構造、すべてがおもしろい。

センスや才能の問題は、もちろんある。残念ながらセンスや才能を抜きにして語ることはできない。でも、今回隣の席で5日間、同じもの見て、同じ空気に触れて、同じ人に話を聞いて、同じ冗談にゲラゲラ笑いながらあらためてわかったことがある。

永田さんの文章を支えるのは、すなわち「おもしろい文章」を支えるのは、ただただ「伝えようとする意志」なのだ。

永田さんをはじめ、ぼくが好きな書き手の人たちは「うまいことを言ってやろう」とか「きれいなことばでまとめてやろう」とか「おれの腕を見せつけてやろう」とか、そんなことは微塵も考えていない。

そうではなく「もっと的確に伝えよう」「もっと直感的に伝えよう」、そして「もっとたのしく伝えよう」の意志が、あのことばを生み、比喩をつくらせ、グルーヴ感満点のリズムと強弱をつけさせているのだ。結果、「うまいこと」を言っているように見えても、それはただの結果なのだ。もちろん、その道を50年近く走ってこられたトップランナーが、糸井重里さんなのだけど。


実際に話したのはバカ話ばっかりだったけれど、永田さんの隣に座って書けた5日間は、とってもぜいたくな個人授業のようだった。

ほぼ日に行くと、尊敬できる人が何人もいる。

この歳になってあらためて、なんでもないひとりの生徒になれた自分がいる。

きょうはこれから「ほぼ日の学校」だ。