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明日はサッカーの話を書きます。

たぶんあれは、1999年だったんだと思う。

調べて書けば正確なところがわかるんだけれど、そうするとつまんなくなる話なので記憶のままに書く。たしかその年の夏ごろ、文芸誌『新潮』で唐突に村上春樹さんの連載がはじまった。そこには〈地震のあとで〉という副題がつけられていた。のちに書き下ろしの『蜂蜜パイ』を加え、『神の子どもたちはみな踊る』と改題されることになった短編連作だ。書き下ろし小説のイメージが強かった村上春樹さんの作品が、連載で読めるなんて。興奮するぼくの頭上に、ずっとクエスチョンマークが浮かんでいた。


この人はどうして、地震のことを書くのだろう。語るのだろう。


1995年に起きた阪神淡路大震災を、大学の卒業制作に追われながら九州の地で眺めるばかりだったぼくは、何年経ってもなお「地震のあと」を考え描こうとする彼の思いが、うまくつかめずにいた。創作者として壁にぶつかり、無理に社会的テーマを選んでいるのではないかとさえ、いぶかしんだ。


2011年の東日本大震災を受けてあらためて思ったのは、「おれにはなんにも言えないよ」だった。たしかに東京も揺れた。過去に経験したことのないくらいに揺れた。余震に怯える日々は、こころの表皮をガリガリとかきむしっていった。もちろん原子力発電所の問題もあった。つらい、こわい、もういやだ、いろんな感情がかけめぐった。

けれども東京にいながら、東北の方々がどのような光景を目にし、どのような被害に遭われ、どのような状況にいるのかを知りながら、わあわあ泣き言めいたことを口走ったり、過剰や過激に流されるのは、ちょっとできないよと思った。もちろん感情を押し殺して沈黙を守るのではない。「なにも言わない、思わない」が正解ではない。言うのだけど、こころの落ちつけ方として「言わない」はありえないのだけど、言うとすればそれは別のことばだ。


そして村上春樹さんの〈地震のあとで〉を思い出した。

ああ、そういうことだったのか。彼は、新作のテーマとして巨大地震を選んだのではなく、あの地震に折り合いをつける手段として、たまたま「創作」を選んだのだ。そして偶然にも、彼は優れた創作者であったのだ。

……なんだか十年以上もくすぶっていた思いが(たとえ勘違いだとしても)氷解したような気がして、いくらか落ち着いたのを憶えている。


という話をここに書いているぼくはいま、大阪を中心に起きた昨日の地震について、あまりことばが出てこない。必要以上に深刻ぶったことを書くのも違う気がするし、とってつけたようなお見舞いのことばも違う気がするし、何事もなかったかのような顔で歩くのも無理がある。そうしてけっきょく、自分に書けるところまでを書いている。


明日はたぶん、サッカーの話を書きます。