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マウス&ソール

ずいぶん前、とある女性歌手が歯科医の方と結婚したときのこと。

その女性歌手は、やたらスキャンダラスな喧噪のなかに生きるスターでした。誰もが予想しえなかった歯科医との結婚では、「歯科医はなぜモテるのか?」という議論を巻き起こしました。

たとえば、歯科医の多くは開業医であり、裕福だということ。他のドクターに比べ、「命」に直接タッチする仕事ではなく、心理的な負担が少なくてすむこと。入院患者もおらず、超過勤務も少ないため、プライベートの時間も計画的に確保できるであろうこと。

そしていちばん大きな理由として語られていたのは、「口腔=プライベート空間説」でした。

つまり、「口のなかとは、自分で見ることさえできない、超プライベート空間である。汚れや匂いも気になるし、なんなら恥ずかしい場所ですらある。大口を開いてそれを見せ、無防備な状態でおまかせするしかない患者は、歯科医に対して心を開きやすい」という、心理的な見解です。

このロジック、どう思います?

ぼく、歯医者についてはよくわからないのですが、リフレクソロジー(足裏マッサージ)の気持ちよさは、けっこうこれ大きいと思っています。

まず、足の裏を見せ、触られるリフレクソロジーには、独特の気恥ずかしさや申し訳なさがあります。しかも、その気恥ずかしさを通り越した先に待ってる開放感、みたいなものさえあるから厄介です。口のなかと同じく、普段他人に見せるようなものではないこと、しかも基本的に足の裏が「穢れ」の領域にあること、などがそう思わせるのでしょう。

たとえばむかし、「足の裏を見ればその人のすべてがわかる」という足裏診断を売り物にする新興宗教(悪徳商法?)がありましたよね。あれなんかも、手相ではぜったいに駄目だったと思うんですよ。

宗教つながりでいうと、カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』にも足の裏を使った印象的な儀式(ボコマル)が登場します。

向かい合って床に座った2人の人間が、足を前方に伸ばし、お互いの足の裏をくっつける儀式です。架空の新興宗教・ボコノン教がもっとも大切にする宗教儀式で、お互いの足の裏(ソール)を合わせることで魂(ソウル)が通じ合う、というお話でした。

これってじつは「キス」と同じ構造なんですよね。というか、キスやもう少し性的なごにょごにょとかの本質にあるものを、ヴォネガットは足の裏で描いてみせたわけです。

「誰にも見せない場所・触らせない場所」とは、要するに「あの人とだけ共有したい場所」なのでしょう。