見出し画像

本というオウンドメディア。

最近ずっと胃の調子が悪い。

体調がすぐれないと、気持ちのほうまでよろしくない感じに流れていって、当たり前のように心と身体のつながりを実感する。と同時に、この胃痛は心因性によるものなのかもしれず、心が先なのか身体が先なのか、ほんとのところはよくわからない。ただ、どっちも悪くなってからようやく、おのれの「疲れているんだなあ」を自覚する。

疲れていてよくないのはぼくの場合、文章が粗くなってしまうことだ。

ここの note に書く文が粗くなるのは「そういう日もある」と納得することができるし、むしろ「そういう日のおれ」を記録する意味も日々の書きものにはあるはずなのでそれはいいのだけど、仕事として書く文章まで粗くなってしまっては困る。その粗さを回避しようと思えば、どうしても文章の歩みは慎重になり、遅くなってしまう。


ぼくがはじめて雑誌やムックではない「本」の仕事をしたのは、「本」をまるまる一冊書き上げたのは、いまから15年くらい前のことだった。当時に書いた本を読みかえすと、技術的な稚拙さに赤面しつつも、「本を書けること」や「たくさん書けること」へのよろこびに満ちあふれていて、なんだかうらやましくなる。あのときぼくは、途方もない自由を実感していた。最近までそれを「字数制限からの自由」だと思っていた。1000文字で書けとも5000文字で書けとも言われず、ほぼ無制限といっていいくらいの文字数で、思う存分に書ける。そのよろこびが、当時感じていた自由だと思っていた。

けれども最近気がついた。

当時のぼくがほんとうに——無意識のうちに——感じていたのは、「媒体からの自由」だったのだ。雑誌(媒体)の特性や読者層、編集方針などになんら縛られることなく、書けること。「おれ」が「この場」のトーンを決め、文体を決め、届けたい読者たちの姿を決め、そこをめざして書けること。一冊の本とは、ぼくにとって「そこではじめて誕生する、唯一無二の媒体」だったのだ。なんならもう、それはオウンドメディアと言ってもいい。


そうやって考えると、どこかの媒体に寄稿するスタイルよりも、やっぱり自分は書籍的ななにかでパッケージごと世に問うスタイルがいいんだろうなあ、それでしか満足しないのだろうなあ、と思う。


なぜこんなことをわざわざ書いているかというと、長い長い本の原稿、その出口がいまだ見えず、けれども2月は終わりに近づき、少しばかり胃が痛くなっているからである。