DSC_0521のコピー

若いときに尊敬したかったわたし。

きのう、若いライターの方々とおしゃべりする機会があった。

普段あまり若い方々との接点(たとえば飲み会のような場)を持たないぼくだけれど、たまにこういう機会があると、いいなあと思う。「若い人はいいなあ」ではない。いつの間にかするっと立場を入れ替え、若いライターさんの側に立って「先輩っていいなあ」と思う。「先輩、ほしかったなあ」と。

もちろんぼくの若いころにも、周囲に先輩はいた。原稿をまとめるのが上手な先輩、人付き合いが上手な先輩、いつも堂々と頼もしい先輩、ほめるところを探すのがむずかしい先輩、いろんな人がいた。けれども現在、そういう先輩方との接点はほとんどない。編集やライターの仕事から離れてしまった方も多いし、専門分野が遠く離れ、人や仕事を紹介したり、融通し合ったりすることがむずかしくなった方も多い。

そしてなにより、若いときのぼくは、尊敬できる先輩をあまり多く持っていなかった。それは「そういう環境に行き着けなかった」でもあるし、「誰かを尊敬するだけの余裕を持ちえなかった」でもある。こんな場所にいちゃダメだと思っていたし、だからこそ周囲に尊敬の念を抱こうとせず、ひたすら全戦全勝を考えていた気がする(なんの勝ち負けなんだ、と言われれば返答に困るのだけど)。

いま、ぼくは周囲に何人もの「尊敬する人」がいて、それはおおきなよろこびであり、ちいさな誇りだ。


そしてまた、自分自身のあり方としても、こころのどこかで「あのときこんな先輩がいてくれたらよかったなあ」な現在を生きている自覚がある。

それはなんというかまさに、幡野広志さんの『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる』という本のタイトルとリンクするところなのだ。