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文章に正解はない?

文章に正解はない。みんな簡単にそう言う。たぶんぼくも、わりと簡単にそう言ってきた。そしてぎりぎりのところまで煎じ詰めていうと、それは正しい。正解なんかありっこない。

けれどもやっぱり思うのだ。「ある」と思って書かないと、「そこ」をめざして書かないと、書けるわけないじゃん、と。


きょう、ほぼ日の塾 発表の広場が公開された。「ほぼ日の塾」に参加する総勢46名もの方々が、糸井さんとぼくの対談音源&文字起こしデータを聞き、読み、写真といっしょにまとめ、それぞれ46通りの対談コンテンツとして仕上げる。そんな画期的な試みだ。素材としてのぼくの至らなさを棚に上げていえば、このモザイク模様みたいな46パターンの「並び」は、かなりおもしろいコンテンツであり、クリエイティブの教材になっていると思う。

時間をかけて、46名ぶんをひとつずつ拝読しながら思ったのが、「正解ってなんだろう?」の問いであり、冒頭のことばだった。

たとえば、同じ音源をもとにしてぼくが原稿を書いたら、ぜんぜん違ったコンテンツになるだろう。これは「おれならもっとうまく書ける」という不遜ではなく、ぼくには47個目の正解がある、というレベルの話だ。


ただし、ぼくの書いた47個目のそれは、ほんの少しだけ「これが正解に違いない!」の思いが強いのではないかと想像する。ほんとうに正解であるかどうかはともかく、「わたしはこれが正解だと思っています。なぜなら…」がきちんと言えるところまで考えるだろうと想像する。

正解はある、と思うこと。
そこにたどりつける、と信じること。
たどりついたと思えるまで、考え抜くこと。


ああ、あの対談にどんな正解があるんだろう。ぼくも書いてみようかなあ。