あれやこれやとワールドカップ。

仕事から健康、親の恩に至るまで。

ありがたみとは一般に「なくしてわかる」ものだとされている。そのお説教をなぞるようにいうと、たしかにありがたかったなあ、と思う。夢のような季節だったよなあ、とへらへらする。今週からぼくが(ぼくらが)なくしてしまったもの。そう、サッカーW杯の話である。相も変わらずぼくはまだ、あの余熱にあてられている。

アンチ・スーパースターの時代。

フランス対クロアチアの決勝戦。多くの日本人がそうだったんじゃないかと思うけれど、ぼくはクロアチアを応援していた。自分がクロアチアを応援することになるなんて、想像もしていなかった。だってそもそも、クロアチアが決勝進出することをいったい、どれだけの人が予想できただろう?

大会がはじまる前、タクシーに乗っても美容院でも友だち同士の会話でも、「どこが優勝すると思う?」の話題になっていた。迷いに迷ったぼくは、ひとまず「応援するのはポルトガル」と答えてきた。ぼくの記憶に残っている史上最高のW杯は、やはり86年のメキシコ大会で、つまりはマラドーナの大会だった。以降、バッジョ、ロナウド、ジダン、メッシ、ネイマールなど、たくさんのスーパースターが誕生したサッカー界だけれど、W杯そのものを「誰それの大会」と呼べるほどに席巻したスーパースターはマラドーナが最後だったように思う。そして時代の潮流はますますひとりのスーパースターでは太刀打ちできないフットボールへと流れ、たぶんもう86年のメキシコ大会みたいなW杯は開催されない。そんなあきらめにも似た思いのなか、もしかしたら最後のスーパースターとしてなにかをやってくれるんじゃないか、「おれの大会」を実現してくれるんじゃないかと期待を寄せていたのが、クリスティアーノ・ロナウドであり、彼を要するポルトガル代表だった。それはまた、安易にドイツやブラジルを優勝候補に挙げたくない、というぼくなりのケチなマニア心でもあった。

たしかにクリスティアーノ・ロナウドの奮闘はすばらしいものだったし、とくにスペイン戦のハットトリックとフリーキックは、今大会のハイライトのひとつとしてぼくらの記憶に残っていくだろう。

でも、決勝はフランス対クロアチアであり、MVPはモドリッチなのだ。今大会で「発見」された未来のスーパースターとしてエムバペを祭り上げるのではなく、モドリッチをMVPと讃えるのが今大会なのだ。なんというかそれは、アンチ・スーパースターの時代にふさわしい選出に思えた。

VARが見せてくれた可能性。

今大会を振り返るにあたって欠かせないのが「VAR」、ビデオ・アシスタント・レフェリーの導入だ。

選手たちがどう思っているかわからないけれど、観客のひとりとしていえば大成功だったと思う。誤審を減らすという大義名分にかなっているのはもちろんのこと、ゲームのなかにあらたな「ジャッジ」の機会が組み込まれることは、ファンにとってもおもしろくないはずがない。

たとえば、大相撲の醍醐味に「物言い」がある。微妙な軍配について脇を固める審判団が手を挙げて、わざわざ土俵に上がってひそひそと協議をする。そして審判部長がマイク片手に「ただいまの協議についてご説明します。行司軍配は〇○○に上がりましたが……」と説明する。正直いって、結果はどうでもいい。行司軍配どおりに〇○○の勝ちであろうと、差し違えで△△△の勝ちであろうと、あるいは同体と見ての取りなおしであろうと、なんだってかまわない。「正確なジャッジがなされること」よりも、眼前の協議によってなにかが決まる、その「最終的なジャッジがなされること」のカタルシスが、大相撲ファンを熱狂させるのだ。物言いは、大相撲という興行が発明した、きわめて興味深いエンターテインメントだと思う。

また、Jリーグのテレビ中継にも、おもしろい仕掛けがある。前半終了後のハーフタイムにおこなわれる、監督インタビューだ。

これなど、監督にとっては迷惑でしかない慣例だろうけれど、ファンとしてはやはり抜群におもしろい。だってそうだろう。まさにこれからベンチに引き上げ、選手たちを叱咤激励し、後半のプランを授けようとする監督をつかまえてインタビューするのだ。そこで語られた課題がこれからの試合で修正され、そこで語られたプランが実現されていくのだ。そしてなにより、隠しきれない監督の「いま」の感情に触れることができるのだ。サッカー中継をよりおもしろくする方策として、このハーフタイム・インタビューはぜひ欧州トップリーグにも広まってほしいと思っている。

VARとハーフタイム・インタビューの共通点は、ブラックボックスの透明化である。

それまで審判や監督・選手だけにしか見えていなかった風景を、聞こえてなかった声を——つまりはブラックボックスのなかにあったものを——ルールとして丸裸にする。もちろん「そのブラックボックスがよかったんだよぉ」というオールドファンの声もあるだろうが、こんな程度で透け透けになるほどサッカーという競技の霧は薄くない。おおいにけっこうな改革だとぼくは思う。

ネイマールのコロコロ問題から考えること。

また、今大会を振り返っておもしろかったのがネイマールのコロコロだ。

審判を欺く行為として、近年厳罰化の傾向が顕著になってきた「シミュレーション」。きっと多くの人は、「なぜ、ネイマールほどの実力をもったスーパースターがあんな真似を?」と思ったことだろう。そんな卑怯な真似しなくても、あんたいくらでも点がとれるでしょ、と。

これは、しばしば日本人選手に足りないとされる「マリーシア(ずる賢い、したたかさ)」とも関連する話だ。

日本人には「ずる賢さ」が足りない。いつもバカ正直にサッカーするばかりで、「したたか」になれない。たとえばベルギー戦の最後、高速カウンターを食らってしまったコーナーキックの場面でもそんな議論がなされたし、もしかするとポーランド戦ラスト10分のあまりにバカ正直なパス回しも、百戦錬磨なサッカー大国だったら別の「賢さ」を発揮していたのかもしれない。


このあたりについてぼくは、ずっと前からもう「試合」という日本語を辞めてはどうかと思っている。

柔道や剣道は「試合」でもいいけれど、サッカーに代表される球技はもう、「試合」の語を廃して、すべて「ゲーム」と呼ぶべきではないかと。球技に求められる瞬間的なひらめき、クリエイティビティは、それが「ゲーム」だからこそ発揮され、育っていくものじゃないかと思っている。

そもそも「試合」とは、刀を持った者同士が向かい合う「仕合」を語源とすることばだ。そこにはいかにも遊びの余地が少なく、クリエイティビティの余地が少ない。ブラジルやスペインがそうであるように、真剣であることと「ゲームであること」は、両立するはずなのだ。

海外選手の、たとえばネイマールの、とても日本人には考えもつかないないようなずる賢いプレーを観るたびに、ぼくは「ああ、彼らは『ゲーム』を『プレイ』しているんだな」と思わされる。試合を闘っている日本人とは、よくも悪くも違うのだ。


「試合」もそうだし、「仕事」もそう。

まじめになりすぎるぼくらには、ぜんぶ「ゲーム」なんだと考えるくらいがちょうどいいんじゃないのかな。

どうせ真剣になるに決まってるんだし、真剣にならない「ゲーム」なんて、おもしろくないんだし。

武士は食わねど高橋ジョージ。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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