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ケレン味のゆくえ

ニール・ヤングに『On The Beach』というアルバムがあります。発表当時、ローリング・ストーン誌で「この10年でもっとも絶望的なアルバム」と評されたものの、ファンからは高く支持されているアルバムです。

で、このアルバムには『渚にて』という邦題がついてるんですけど、いまの時代なら間違いなくカタカナで『オン・ザ・ビーチ』になると思うんですよ。音楽業界に邦題という発想が薄れてきてるのはもちろん、「Beach」を「渚」と訳す言語感覚は、少なくとも平成の日本にはありません。いや、それどころか「渚」という言葉自体が、日常から消えつつある。

「渚」を死語と呼ぶには少し抵抗がありますが、死語のからくりを考えることには、ちょっと興味があります。

たとえば、チョベリバ的な流行語が死語になること。これは簡単に理解できるんです。流行が終わり、その言葉を使うのが時代遅れでダサいことになり、やがて言葉そのものが消えていった。とてもわかりやすい流れです。

あるいは、「もの」の消失とともに消えていく言葉もありますよね。身近なところだと「チャンネルをまわす」という表現。これも、つまみの消失と、それに代わるボタンとリモコンの登場によって死語になっていきました。

また、「もの」は残っていながら、代替語が普及したことで消えていく言葉もありそうです。たとえば、カタカナの「ビーチ」が完全に日本語化し、「海」という単語の含む範囲が海岸線にまで拡大したことによって、「渚」が消えていく。「渚のシンドバッド」、いまはちょっと無理そうです。


それで、すみません。前置きが長くなりました。決して死語ってわけではないのですが、最近「ケレン味」のゆくえについて、よく考えます。

いまの50代くらいまでの、とくにクリエイティブ系の方々って、この言葉をよく使うんですね。でも、たぶんぼくらより下の世代はほとんど使わない。それどころか、正確な意味さえわからない人も多いんじゃないかと思います。

たとえば「ケレン味たっぷりの演技」という寸評。あるいは「ケレン味のない文章」という表現。

前者は「ケレン味」があると言い、後者はそれがないと言う。にもかかわらずこれ、どちらも「だからいい」につながる言葉なんですよね。

辞書的な話をすると、ケレン味の「けれん」とは歌舞伎や義太夫に由来する、俗受けの「はったり」や「ごまかし」を意味する言葉です。歌舞伎の宙づりとか早替わりとか、ああいうものですね。言葉の成り立ちとしてはネガティブなものでしょう。「ケレン味のない文章」は立派なほめ言葉です。

ところが、そのケレン味が「たっぷり」になると、ポジティブな文脈で使われる。ちょっと通ぶった人たちによる評価ではあるけれど、「ケレン味たっぷりの演技だね」は、間違いなくほめている。最近でいえば、香川照之さんなどが「ケレン味たっぷり」の代表格になるのでしょう(そういえば香川さんって、お父さまがケレン味の極致ともいえる「スーパー歌舞伎」の創始者でしたからね)。


で、ケレン味って言葉とともに消えつつある文化や価値観、みたいなものがあるんじゃないのかなあ、と最近よく思います。ある種の教養を感じさせる言葉でもあり、江戸の香りが漂う言葉でもあり、業界人らしいスノッブな響きを持つ言葉でもあり。

まさにケレン味という言葉そのものが、ケレン味たっぷりなんですよね。