模倣するということの意味。

まだ『バーフバリ 王の凱旋』のことを考えている。

自分史上のオールタイムベストムービーなのだから仕方がない。ブルーレイは予約済みなので、発売されたらまた何度でも観ると思う。お金をとらない上映会でも開いて、いちいち1分おきに一時停止しながら、その場にいるみんなであれこれ語り合いたいくらい、とにかく何十回と観たい映画だ。

以前、『16歳の教科書2』という本(これはいまでも大好きな本だ)で、映画監督の李相日さんに取材した。『フラガール』や『悪人』、『怒り』などで知られる、いまや日本を代表する映画監督のひとりだ。

映画学校に通っていた当時、李さんはひとりよがりな駄作ばかりつくっていたのだという。

「僕の入った映画学校は3年制です。それで1〜2年生のとき、自分で監督して短編映画を何本かつくってみました。やっぱり若いし、よくも悪くも世間知らずだし、映画に対する情熱に火がつき始めたころだから、ものすごく『意欲的』な映画を撮るんですね。斬新で、独創的で、オリジナルなものをめざして、自分の思うように撮っていく。
 ところが、できあがった映画を観てみると、これが全然面白くないんですよ。もう目も当てられないような状態。観ていて恥ずかしくてたまらない。もちろん、周囲からもあれこれ批判される。ものすごくヘコむわけです。まるで自分のすべてを否定されたような感じで、立ち直れないくらい徹底的に打ちひしがれる。
 ただ、落ち着いて考えてみると、これは当然の結果でした。映画というのは『受け手=お客さん』がいて、はじめて成立するものです。
 だから、受け手を無視して自分勝手にやっただけの映画は、誰にも届かない。面白いとか面白くないという以前に、作品として成立しない。これは映画に限らず、小説でも音楽でも漫画でも、なんでも一緒なんだと思います。
 独創性とかオリジナルにこだわりすぎた僕は、そのへんが全然わかってなかった。自分のことで頭がいっぱいになって、受け手のことをなにも考えてなかった」
(『16歳の教科書2』より)

じゃあ、どうするか。どうやって受け手に寄り添った映画をつくりあげるのか。李さんの答えは「模倣」だった。

「それで僕が取り組んだのは、『模倣』です。
 僕が面白いと思う映画には、どんな仕組みが隠されているんだろう?
 なぜ僕はこの映画に感動したり、興奮したりするんだろう?
 つまり、この監督はどんなカラクリを使って僕を感動させているんだろう?
 そんな素朴な疑問を、徹底的に分析していったんです。
 具体的には、自分が好きな映画をビデオ屋さんで何本も借りてきて、ノート片手に観る。そして再生しては一時停止して、巻き戻して、もう一度観て、また巻き戻して、という作業を何回もくり返します。
 観るだけじゃうまく整理できないから、ノートに台本を書き起こしていったり、カット割り(映像のつなぎ方)を書き起こしたりしていく。ちょうど、完成された映画をバラバラの素材に分解していくような作業です。
 そこまでやっていくと、一流の監督さんたちがどうやって『受け手』に伝えているのかが、わかってきます。
 ただ自分の撮りたいものをバンバン撮ってつなげただけじゃない、その監督なりの理論や手法に基づいて撮ってるし、ものすごく論理的な流れでつなげてるんだということがわかってくる。
 たとえば同じ役者さんが『ごめんなさい』と謝ってるシーンでも、カット割りが少し変わるだけで全然違った印象になる。受け手への伝わり方が変わってくるんですね」
(『16歳の教科書2』より)

たぶん、これと同じやりかたで『バーフバリ 王の凱旋』を分析・分解していったなら、ノートが何冊あっても収まらないような、とんでもない情報量(アイデアの量)にあらためて呆気にとられるんじゃないかと思う。そしてぼくはとられてみたいのだ、その「呆気」に。


あと、文章の上達法としてしばしば写経の効能が語られるけど、そして実際に写経で得られるものは大きいんだけど、できれば李監督がレンタルビデオでくり返していたような因数分解めいた写経をやってほしいと思う。好きな短編をひとつだけでもこの眼で読み、解き、写していけば、そこから先の文章はずいぶん変わるはずだと思う。


ぼくはいまでもときどきやりますよ、写経。


郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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