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たとえ時間がかかっても。

あったけれども、なかった。少なくとも、こんなじゃなかった。

たとえば「炎上」ということば。むかしから日本語として存在してはいたけれど、いまのような文脈で使われることばじゃなかったし、この文脈を手に入れてから使用頻度は格段に増えた。あるいは、「拡散」ということば。こちらも日本語として存在してはいたものの、たとえばそれは「核拡散防止条約」のような場面で使われることばで、SNS 空間で使われている「拡散」とは少しだけニュアンスが違っている。


それで、どうして SNS 空間では「拡散」や「炎上」が起こりやすいのかについて、ひとつ最近気づいたことがある。

たとえば「炎上」の要因について、人間の根底にある悪意を挙げてみたり、匿名性を隠れ蓑にしたいじめの構造を論じてみたり、日本社会に特有の同調圧力で説明したり、けっきょく根底にあるのは不況と格差で、苦しい立場に置かれた人間が「自分より弱い者」や「自分が石を投げてもいい者」を探しているのだと語ってみたり、いろんな言説を目にする。

たしかにどれも当てはまりそうだし、納得できる話だ。でも、ほんとうにそれだけなのか、と考える自分がいる。ここは、日本は、世のなかは、ほんとにそんな怨嗟に満ちたネガティブな空間なのか、と考える自分がいる。いやなヤツもいるにはいるけど、そればかりじゃないだろう、と自分の周囲を見渡してしまう。


で、ぼくが気づいたこと。


けっきょくはこれ、価値の話なのだ。

むかしからそうだったのだろうけど、SNS 空間においてはとくに「早さ」に価値を置く人が増えている。誰よりも早く反応すること。1秒でも早く意見を述べること。みんなよりも先に「知ってた」を証明すること。その速度を競い合い、あたかも早さこそが優秀さの証であるかのような価値観が広がった結果、「拡散」が進み、場合によっては「炎上」の油となっているのだ。

早さに価値を置きすぎると、人は立ち止まって考えることをしなくなる。調べようとも、裏を取ろうともしなくなる。論理よりも感情が優先され、あらゆる物事を「マルかバツか」で直感的にジャッジするようになる。もう一歩先を、その裏側を、クリティカルに考える習慣が日々失われていく。


思うよ、ぼくは。

そして言うよ、ぼくは。


たかが「知ってる」や「見つけた」くらいのところで他人に先んじたところで、なんにも偉くないし、なんの価値もないよ。早さが偉いのは、ファストフードを頂点とするような発想だよ。60秒で出てくる料理のありがたさは否定しないけれど、それだけを価値にするのはよくないよ。時間がかかってもぼくは、立ち止まって考える人でありたいよ。