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半分を過ぎて、ほんとうになって。

半分理論、ということばをご存知だろうか。

知ってるわけがないだろう、ぼくがいまつくったことばだ。けれどもこれ、元ネタは糸井重里さんで、ずいぶんとむかしに糸井さんは「ほぼ日刊イトイ新聞」のなかで下記のような内容のことを書かれていた。おぼろげな記憶をもとに書くので、詳細やその表現はまったく違っているはずだ。けれどもぼくは、こんなふうに記憶している。


「ぼくたちはよく、90年代とか2000年代とか、10年ごとに時間を区切ってものごとを考える」

「でも、たとえば1993年のぼくらが口にしている『90年代』ということばは、まだちょっと初々しい」

「その半分を過ぎたあたりから、つまりは95年くらいくらいから、ようやくじぶんに『90年代』が馴染んでくる」

「ぼくたちが実感をともなった90年代を生きるのは、後半の5年間だけだ」

「最初の5年間については、予感のなかで生きている。それは、『未来』を生きている、ともいえるはずだ」


くり返すけれどこれは、「ぼくはこう記憶している」という話にすぎない。けれども「半分を過ぎたところでほんとうになる」と「それまでのぼくらは未来に生きている」という骨子については、たぶん間違っていない。読んだとき、たいそう驚いた。


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という引用からはじめたのは、本日が7月1日だからである。

あんなに初々しかった2019年も半分が過ぎ、いよいよほんとうの2019年がはじまったからである。

きょう、進行中の新刊について柿内芳文氏と、打ち合わせをもった。とてもいい打ち合わせだった。冷静になって考えてみたら、なにも前には進んでいない。作業だけでいえば、むしろおおきく後退している。ずいぶん前に引き返して、書きなおすことになった。

それでも道が開けた気がする。

上記の「半分理論」にしたがっていえば、まだまだぜんぜん「未来」に生きているふわふわの原稿だ、これは。半分を過ぎ、それが「ほんとう」になってしまえば、ここまでおおきな改稿はむずかしくなる。

一進一退ではあるけれど、なんとか2019年のうちに書き終えたい。